喧騒とする廊下を渡り、外に出た。今向かっている部室は、テニスコートのある校庭の脇のプレハブ小屋の中にあった。

 今更ながら、こんな場所に異性を連れ込んだら、本当にさっきまでの鬼畜になりそうだな、と思った。


「……そうだ。あんたラケット、部室に一本置いてたよね」


 しかし、結衣はあまり意に介していないようだった。


「それが?」


「グリップの匂い嗅がせてよ」


 それどころか、ブレない。

 本当、数年間かけて知ってきたこいつのイメージが、たった一日と少しでガラっと変わった。実害被らなければなんでもいいんだけど、被っているのが辛いところである。


 そんな呆れ、絶望を抱えている内にテニス部の部室に辿り着いた。

 ドアノブに手をかけて、俺は制止した。


「どうかした?」


 背後にいる結衣が言った。


 そんな言葉に返答せず、俺は部室から踵を返そうとしていた。


「何よ。入りましょうよ」


「……人いる。場所変えよう」


 話し声がポツポツと、部室から漏れ出ていた。声を聞く限り、中にいるのは三年で部長の大和先輩と副部長の黒田先輩だろうか。

 朝練をサボったこともあって、今一番俺が顔を合わせたくない人トップツー。


 だから俺は、別の場所で昼ご飯を食べようと結衣に提案をしたのだった。


「嫌」


 しかし、さっき部室に誰かといるかもと問題点提議をしてくれていた結衣が、態度を翻してきた。


「は? なんで」


「だって、あたしもうあんたのラケットのグリップの匂い嗅ぐ気満々だったんだよ?」


「いや知らん」


 こいつ……本当、救いようのない変態だな。

 一時でも信頼していた俺の気持ちを返して。


「そもそも、人がいたらどっちにせよ嗅げないだろ」


「ふっ。馬鹿ね。やりようは色々あるのよ」


「例えば?」


「こんなこともあろうかと、あんたのグリップテープはリサーチ済みよ」


「はあ……それで?」


「あっ、あんたのグリップもうボロボロじゃーん。代えてあげるね? ……これで、あたしは無事あんたの使用済みグリップを人目も憚らず手に入れられる」


「ほへー」


 こいつ、本当馬鹿だなあ。情熱を注ぐ方向性が明後日すぎひん?

 得意げな顔でスカートのポケットから俺が愛用するグリップテープを取り出した結衣に、俺は目を細めて呆れた。


「とにかく、突入するわよ」


「いやいや、俺達二人が一緒にいるとこ見られたら、変な邪推されるかもわからん」


「は? あたしとあんたが? ないない」


 イラッ。


「ほら行くよ。お昼食べれなくなるから」


「あっ、ちょっと」


 俺はなんとか結衣を止めようとしたが止めれなかった。

 結衣が、遂に部室のドアノブに手をかけた。


 しかし、この変態が扉を開けることはなかった。


 ドアノブを握ったまま固まってしまった結衣に、俺は怪訝な顔を見せた。


「どうした?」


 結衣の返事はなかった。


 ……が、まもなく結衣は、部室から漏れだす声に聴く耳を立てていることに俺は気付いた。


 盛り上がっている部室内。

 おかげで、扉越しでも二人の会話が聞こえてくるのだった。


「にしても、奥村は本当にこのまま部を辞めるんだろうかなあ」


 部室内から漏れる会話は……俺に関することだった。

 結衣が知っている時点でそうなっているとは思ったが、やはり既に部内で俺の退部騒動は周知のようだった。


「……まあ、今年は一年の層も厚いし、あいつがいなくてもなんとかなるだろう」


 今すぐに辞める気は、一先ずなくなったわけだが……既にいないものと思われているのは、少し悲しかった。ただ、元はと言えば自分で蒔いた種。文句を言うのもおかしな話だった。


「今年の一年と言えば……まあ、平塚だよな」


 平塚綱吉。

 苗字を聞いただけで、俺は今先輩達が話している人間がそいつであることを察した。彼は、小学校時代から全国大会に出るくらいの有名な選手だった。

 強烈なサーブ、ストロークが武器の選手。


 そして、俺が嫉妬をする男でもある。


 何が嫉妬の対象かって、平塚の今の身長は百九十センチにも迫るくらいに高いのだ。スタイルも良く、顔立ちも整っていて、奴を追っかける女子も少なくないと聞く。


 低身長プレイヤーの俺からして、奴の高身長はただ羨ましかった。


「平塚な。……確かに、凄いよな。ぶっちゃけ、奥村と戦ったらどっちが勝つと思う?」


 表情筋が固まった。

 そうやって比べられるとは。……まあ確かに、ウチの学校の全国区の選手と言えば、俺達二人くらいなものか。


「どうだろうなあ」


 でも、と黒田先輩が嘲笑するように付け足した声がした。




「奥村は、元天才少年だからなあ」




 眉間に皺が寄っていることがわかった。


 気付けば俺は、結衣のことも忘れて踵を返していた。


 ……わかっていた。

 部内で俺が、どういう評価をされているかなんて。そう呼ばれていることなんて、わかっていた。


 でも、頼れる先輩からそんな陰口のようなことを言われているとは、思っていなかった。

 いや、嘘だ。

 本当はそれさえもわかっていたはずなのだ。


 でも、そう言われていないと信じたい気持ちがあった。

 自制心と自尊心を保つために、そう思いたい気持ちがあったのだ。


 ……それをズタズタにされ、俺は今にもどうにかなってしまいそうな気分だった。


「ちょっと」


 足早に歩く俺の手を掴んだのは、結衣だった。

 慌てる結衣の声に、俺はゆっくりとそちらを振り返った。


 ……結衣はさっきまでのお調子者の顔とは違い……昨日部活を辞めるな、と諭した時のように。寂しそうな、辛そうな、苦しそうな。

 だけど、確固たる何かを持った顔をしていた。


「……見返せばいいじゃない」


 それは励ましでもなければ確信でもない。


「今の辛い気持ち……もう無理だって逃げるんじゃなく、立ち向かって見返してやればいいじゃない」


 それは……非現実的な詭弁だった。


「無理だよ」


 気付けば、結衣の手を振り解いていた。


 無理。


 そう、無理。無理なのだ。


 体格差。

 人として。テニスプレイヤーとして。


 戦うにあたり、絶対に有利不利に関わるそんな要素。


 そしてそれは……サーブ。ストローク。戦術。そういう学べば学ぶだけ還元される要素ではない。それは、生まれ持った才能。ある奴は生き残り、ない奴は淘汰されるそんな要素。


「……無理なんだよ」


 俺は運が悪かった。

 身長がある奴が運が良いと言うのなら……俺は、運が悪かった。

 これまで長い間、ひたすらにテニスを頑張って来た。


 でも、最後の最後は運が全ての結果を左右する。


 そんな恐ろしい事実が高い壁となって、今俺の目の前に立ちはだかっていた。




 お昼を食べる気は、もう失せていた。

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