逃亡
午後の授業は、昼ご飯を食べられなかったためか、はたまたさっき部室で盗み聞きしてしまった内容のためか、まったく頭には入ってこなかった。
そんな調子のせいか、放課後はあっさりとやってきた。
部活に行くか、休みか。
帰りのショートホームルームに参加しながら、頭の中では間近に迫った部活の時間に対して、ずっとそんなことを考えていた。
正直に言えば、行きたくなかった。
朝練をサボった時と一緒だ。俺は、まだ逃げようとしている。どうしようもない現状から、逃げようとしている。
逃げるだなんて格好悪い。
そう思っている心もある。
でも、逃げ以外の選択を取って好転する未来が、どうしても見えなかった。
だから、行きたくなかった。
ショートホームルームが終わり、俺は答えを導いた。
「今日は休もう」
朝も思った。
一度休むと、どんどん歯止めが効かなくなるって。明日は出ようと思った。でも、明日になると途端に心変わりしてしまうのだ。
そうして、日数ばかりが無駄に過ぎて、最終的には取返しが付かなくなるのだ。
そんなこと、わかっている。
わかっているのに……。
どうしても、一歩が踏み出せなかった。
教科書とノートを鞄に詰めた。幸い、今日は数学の授業で宿題が出されている。難解な宿題だ。それを免罪符にして、部活を休む口実はあるのだ。
だから、これは……。
既に昼の騒動も忘れているクラスメイト達を他所に、俺は足早に教室を出た。早く逃げよう。早く、早く……。
「ちょっと」
そんな俺の目の前に現れたのは……。
「……結衣」
また、こいつだった。
「……なんだよ」
俺は、こいつから目を逸らしつつ声を荒げて言った。
結衣は返事をしなかった。
ただ、わかった。
俺の内心が見抜かれていることは、わかった。
結衣はこちらに歩み寄ってきた。
一歩。
また一歩。
まるで最後通告をされる戦士のように、俺の心臓が、高鳴る。
結衣に右手を掴まれた時、俺の心臓の高鳴りはピークを迎えた。
「行くよ」
そう諭す結衣の手を、俺は気付けば振り払っていた。
「……行かない」
「また逃げるの?」
「……逃げじゃない」
逃げじゃない。心からそう思って言っているのに、口が、鉛を吊るされているように重かった。
「数学の宿題が出てる。難しいやつ。それを明日までに解かないと」
俺は俯いていた。結衣が今どんな顔をしているのか。それがわからない。怖かった。ただ、怖かったのだ。
結衣の顔を見るのが、怖かったのだ。
……言い訳を終えて、俺はゆっくりと顔を上げた。
結衣は、寂しそうに俺を見ていた。
「本当、あんた格好悪い」
唇を噛み締める俺に……。
「……昔は、格好良かったのに」
結衣は、もう言葉をかける気はないらしかった。
踵を返して去っていく結衣に、かける言葉は見つからなかった。
また、俺は俯いていた。
でも、気持ちは安堵していた。
ようやく逃げれる。
その結末を悟って、安堵していた。
……わかっているんだ。
これがただの逃げだってことは。
立ち向かえ、とあいつは言った。昼休み。自分へ向けられた心無い発言に心が折れた俺に向かって、奴はそう言って……周囲を見返せとまで言ってきた。
他人事だからって簡単に言いやがって。
口には出さなかったが、そう思った。
身勝手なことを言うあいつが、憎らしかった。
でも、違う。
身勝手なことを言うあいつが憎らしかった。
それはつまり……憎らしいと思うくらい、あいつの言っていることは正しかったのだ。
また俺は、間違えているのだ。
ここで逃げることも。
ここで立ち向かわないことも。
ここで……見返せないと諦めることも。
正しくない。
他でもない自分でそう思っているから、俺は奴の身勝手な発言に腹が立ったんだ。
……でも、一歩が踏み出せない。
怖かった。
また負けて、身勝手な中傷をされることが、怖かった。
自分は俺よりへたくそな癖に。
自分は、俺なんかより結果を残せていない癖に。
奴らは得意げに、まるで自分が討ったかのように……自分の手柄のように、俺の敗北を嬉々として喜ぶ。
そんな奴らが、嫌いだった。
殺してやりたいくらい、大嫌いだった。
そいつらに歯向かう唯一の術。
抗うことが出来ない対格差を前にして、俺が出来る唯一の術。
それが、逃げることだった。
だから俺は逃げ出そうと思ったんだ。
……ああ、そうだ。
俺は、きっと何も……間違ってなんか……。
廊下の曲がり角。
まもなく、結衣はそこに差し掛かろうとしていた。そこに辿り着くまでの間、俺はずっと一人悩み耽っていたらしかった。
その、曲がり角を曲がる直前……。
俺は見てしまった。
まるで、涙を拭くように……右手で目頭を拭う結衣を、俺は見てしまったのだ。
あいつのこと、顔を見たくないとさえ思った。
いつだって正しいあいつが……俺は気に入らなかったんだ。その正しさを証明する術も持たない癖に、偉そうな正論を述べるあいつが気に入らなかったんだ。
でも、そんなこと……。
この場で俺を説得出来なかったあいつが、わかってないはずがないじゃないか。
自分の無力さを、あいつが気付いてないはずがないじゃないか!
「待って!」
気付いたら、俺は走り出していた。
あの憎たらしい女のために、走り出していたのだ。
廊下を抜けて。
教室から出てくる生徒の隙間を縫って。
曲がり角を曲がって、階段を下って……玄関に差し掛かる結衣の腕を、俺は掴んだ。
振り返った結衣の目尻に、微かに涙が溜まっていることに気付いた。
「……何よ」
憎々しそうに、結衣は言った。
そんな結衣に、俺は何も言えなかった。何を言うか決めてなかった。
言いたいことはあるのに、どう言葉にして良いか。
それがわからなかった。
でも、まもなく俺は気付いた。
「……部活、出るよ」
「え?」
俺が伝えたいこの気持ち。
それは多分、言葉にするより行動で示した方が良いのだろう。
「お前の性癖のため、一肌脱いでやるって言ってんだ」
……この変態相手なら、きっとその方が。
結衣は……。
「何それ」
可笑しそうに笑いながら、涙を拭っていた。
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