昨晩の香り
少し肌寒い朝だった。
いつもより早く目を覚ました。いつもより、昨日はたくさん運動した。それだと言うのに、体はあまり重くなかった。貧血気味ではないものの朝が弱い人間であったにも関わらず、いつも以上に早く起きて辛くないだなんて。
それだけ、昨日の勝利で俺は心奮い立っていたのだろう。
ぼんやりそんなことを思いながらカーテンを開けた。
季節的にはとっくの昔から春だったと言うのに、心はずっと雪が降っているくらいの冬模様だった。心がようやく外の季節に追いついた。
清々しい気持ちで家を出た。
電車も、通学路も。ずっとくすんで見えていた景色が鮮やかになっている気がした。
それだけ、俺の心も晴れ渡っていると言うことだろうか。昨日のテニスの結果、それは一夜明けた今でも鮮明に思い出せるくらいにしっかりと記憶していた。ラケットに弾かれるボールの感覚。オムニのコートを駆ける疾走感。
全てが、未だ思い出せた。
それくらい、昨日の勝利は久々の快感だったのだ。
だから、今日もあの感覚を味わいたくて、いつもなら気だるいだけだった朝練にも俺は参加しようとしていた。
大和先輩に預けられた鍵をポケットに仕舞い、恐らく朝一番に俺は部室にやって来た。
「おはよう」
「うひゃあああっ」
朝一番に来た。
どうやらそれは嘘だった。そこにいたのは一昨日から俺によく悲鳴を上げさせるそんな奴。
結衣だった。
「お、お前っ。もっと普通に出てこれないのかよ」
声を荒げて言うと、結衣は小首を傾げた。
「曲がり角で見つけて走って追いかけて来て上げたのに、どうしてそんな言われなきゃいけないのよ」
「……それは」
確かに、それは明らかな善意。責められる方が酷と言うものだ。
でも、一昨日こいつの性癖を知ったあの日から、一歩違えば本当に刺されそうなあいつの心情を知ってから、俺はこいつが怖くて怖くてしょうがなかった。
だからこうして、情けなく悲鳴を上げてしまうのだ。
「それにしても、珍しいね」
未だ心臓が高鳴りビクビクする俺を他所に、結衣は少し嬉しそうだった。
「あんたがこんなに早く学校に……部活に来るの、初めてじゃない?」
結衣にそう言われ、俺はバツが悪そうにそっぽを向いた。結衣の言うことは、まあ事実だった。しょうがない。朝の俺は貧血気味なのだ。そんなことないけれど。
「沈黙は何とやら、だよ?」
「別に否定しているわけじゃない」
「じゃあ、認めるんだ」
「……まあな」
フフフ、と結衣が微笑んだ。
「そっか。久しぶりの難敵からの勝利だもんね。そりゃあ、沸き立つものもあるか」
「……物分かり良いじゃないか」
「なんで物分かりが良くて文句言われるのよ」
「……それは」
もっといじってくると思ったから。だから、俺は素直になれなかった。
「……別にいじったりしないよ」
そんな俺の気持ちに気付き、結衣は微笑んで言った。
「だって、あたしだって嬉しいもの。あんたの勝利」
……え?
「それって……」
……もしかして。お前……俺のこと……?
「これであんたの匂いを嗅ぐための障壁が一つ減ったってことじゃない!!! それが嬉しくないはずがないじゃない!!!!!」
……うん。
まあ、ね?
わかってた。わかってたよ。
「うわあぁ……」
昨日から、一体何度この女に向けて引けば良いのか。数えるのも億劫になりつつある俺は、呆れる顔を作ることしか出来なかった。
「さ、早く着替えてきてっ」
「……えぇ?」
「早く着替えて、練習しましょう! 練習!」
朝からうるさい女である。
「何やってるのよ、早く着替えなさいよ。ここで!」
「ここでっ!?」
ここ、部室じゃないんだけど。
そんな場所で俺の衣類剝ぎ取ってやろうとしているの? 純粋に怖い。ただ怖い。
こいつ、さっきから随分と見境がなくなっている。
普通ここで衣服を脱げだなんて言うか?
……そんなに興奮するくらい、昨晩の匂いが極上だったってことなのだろうか。
「うわぁあぁ……」
想像するんじゃなかった。
痛い目に見ると、だって俺だけなんだもの。
朝一番だと思ったのに奴がいて。
気持ちよく練習しようと思ったのに気が滅いて。
なんだか、空回りするこの女のせいでさっきまでの清々しい気持ちが一気に薄れていた。
……まあ、でも。
他でもないこいつの言葉なら、多少は賛同しようと思うのは、昨日の一件で俺がこいつに相当心を許した証拠なのだろう。
それだけ俺は……こいつに感謝の念を抱いているのだろう。
「とりあえず、部室で着替えてくるから」
「早くね」
可愛らしく微笑み無茶苦茶なことを言うこの変態に、俺ははにかんで部室へと向かった。
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