上納金

「ん」


 結衣は、俺の前に右手を差しだしていた。

 俺がお礼を言い終えて、上着を脱ぎ終えて、上半身裸の状態の時のそんな一幕だった。


 こっち見るな、と言ったのに、こいつ一切気にせずこっち見ていやがる。


 少し文句を言いたくなった。でも言わなかった。

 試合のことは、今回は関係なかった。


 今文句を言わなかった理由。


「……うん?」


 それは、結衣が不可解な行動をしてきたからだった。

 差し出された奴の右手。


 まるで、何かを寄越せと言わんばかりのその右手に、俺は小首を傾げざるを得なかった。


「ん」


 結衣は、まるで物乞いするように右手を振った。さっさと置け。そう言っているようだった。


「いや、うんじゃわからない」


「は?」


 冷たい結衣の声。

 多分、今まで聞いた声で、一番冷たい声だった。


 謂れのないその冷ややかな態度に、俺は少し泣きそうだった。何なら少し泣いたから。セーフ。……いや、アウト。


「忘れたの?」


「何を」


 結衣の問いかけに聞き返すと、それは奴にしたらもう答えに近かったようだった。


「……はあ」


 深い深い結衣のため息。

 

「約束、忘れたの?」


「約束?」


「……あんたがテニス上手くなるサポートするから、あんたは何かをあたしに渡さなければならないはずよね?」


「……スポンサー料?」




「そのテニスウェアよっ!」




 結衣が指さしたのは、さっき俺が脱いで結衣と真逆のベンチに置いておいた、俺の今日一日の汗が詰まったテニスウェア。


 ……言われて俺は思い出した。


 そう言えばそんな約束をしたなあってことではない。




 ……こいつ、変態だったな。




「さっきまでの尊敬を返せ」


「は?」


 は? じゃあねえよ。

 こっちはお前のおかげで、大切なことを思い出せたと思ったのに……なのに、全部台無しだよ!


「お前、本当ブレないな」


「何よ。頑張ったことに対する報酬をもらうことの何が悪いのよ」


「物は言い様」


 報酬が俺のテニスウェアだなんて、一体何人の人がそれで納得すると言うのか。いや、こいつ以外にそれで納得されたら困るんだけどね?

 だって、見ず知らずの人に自分の匂い嗅がれて付きまとわれるって、普通に怖えじゃん。こいつだけで良いよ、そんな本当にあった怖い話。


「って言うか、本当にこんなので良いのかよ」


 何なら、ファミレスのパフェくらいは奢っても良いのに。


「むしろ、それじゃなきゃ駄目なんだけど」


 ご立腹そうに結衣は言う。俺はこいつの感性がまるでわからない。


 ……ただまあ、確かにこいつの態度は常に一貫しているよなあ。ただひたすらに、俺の体臭付きテニスウェアを欲するその執着心に、少しずつ感心し始めている。と言うのは過言だったわ。


 ため息をつくと、


「何ため息ついてるのよ。早くしなさいよ!」


 結衣は怒った。


「匂いは鮮度が命なのよ? あんたわかってんの!?」


「わっかんねえよ! この変態っ!!!」


 ……うるさいなあ。もう。

 この喧しい変態を黙らせる手段。それはもう、ただ一つ。


 仕方なく俺は、テニスウェアを掴み……結衣に渡そうと思って、気付いた。


「なあ?」


「何よ」


「……これからこのテニスウェアは、お前に使用されるんだよな?」


「そうね」


 ナニに使用されるか、は敢えて問わなかった。

 ただ、ナニに使用される光景を想像して……この汗付きテニスウェアの将来を不憫に思って、俺は固まってしまった。


 このテニスウェアは、俺に汗をたくさん吸収させられた挙句、これから結衣の魔の手に堕ち……ナニに使われ、洗濯され……そうしてまた俺に使用され汗をたくさん吸収し……ナニにナニされ。

 心から可哀そうだと思った。


 ただ一番可哀そうだと思ったのは俺自身だ。


 なんでナニに使われた衣類を再び身に纏わなきゃならんのだ。


 ……。


 …………。



 わ、渡したくねえ……。



 チラリと結衣の顔色を窺った。


 薄暗い室内。

 思えばそんな場所で異性同士が二人きり。教師の誰かに見つかろうものなら大目玉を食いそうなこの状態で、微かに見えたのは可愛らしく小首を傾げる結衣だった。


 ……まあ、あれだよなあ。


 一応今回は……確かに、相当助けてもらったわけだし。


 それに何より……。




 ここで拒否したら、こいつ発狂したりしないだろうか。


 この俺の使用したテニスウェアにかける異常な執着。テニスウェアのために、こいつは中立であるべきのマネージャーと言う立場がありながら俺に肩入れするようなアドバイスをしたり、他にも朝早く起きて弁当を作ったり、部活を辞めるなと怒ったり。






 え待って。こいつ本当にどんだけ俺のテニスウェア好きなの……?


 えぇぇぇぇ。

 えぇぇぇぇ……?


 その好意のベクトルが俺自身に一ミリも向いていないことにも驚くし、その上でテニスウェアが大好き過ぎるこいつに本当に畏怖の念を抱く。


 ……マジで、テニスウェア渡さないと俺、刺されるかもしれない(泣)。


 渋々、俺は結衣にテニスウェアを渡した。


 テニスウェアを、結衣は俺からひったくるように奪った。

 そして、薄暗くてよく見えなかったし出来れば違うと思いたかったのだが……結衣は、顔にテニスウェアを押し付けたように見えた。


「うわあ……」


 思わず、声が漏れた。


 静かな室内で、静かに響く。




 スーーーーッ。

 ハーーーーーーーーッ。




「うわあぁぁ……」




 思わず、声が漏れた。


 一時は満足したように、変態は鞄に俺のテニスウェアを仕舞った。


「じゃ」


「あ、うん」


 そそくさと帰っていく結衣に、俺は気付く。

 あいつがわざわざ部室に入って来たのは……俺のテニスウェアを頂戴するためのことだったのか、と。




「うわあぁぁぁ……」




 出来れば無関係を装いたい変態ぶりだぜ。

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