逃げない

 お礼を伝えたその人は、俺の試合の続きを見ることもなくさっさとマネージャー業に戻っていった。思えば試合中、ああして誰かと話した経験はあまり多くない。小さい頃は、隣で喋るコーチの声も聞こえないくらいに集中していたから。

 大きくなった最近は、試合中もずっと心ここにあらずだったから。だから、他人と話す余裕なんてなかった。


 それが一口に間違っていたのか、と言われれば、そんなことはないと思う。しかし、こうして笑いを堪えながらコートに戻ると言う機会は、思えば随分久しかった。


 負けたくない。

 でも、負ける。


 そんな戦況に、常に雁字搦めにされている気分だった。仮に戦況は勝っていても、どんな拍子でそれが覆るかはわからないから……だから、試合の時はずっとそうだった。


 ずっと深刻そうな顔をして試合をしていたことだろう。

 しかし今、そんな緊張、恐怖は俺の中から消え去っていた。


 今のまま行けば負ける。それがわかっているのに、だ。


 逃げるな。

 あいつは常々、俺にそんなことを言っていた。


 俺はあいつのその言葉を、俺のテニスに対する態度に向けた言葉だと思っていた。事実、これまでの俺はずっとテニスから逃げてきていた。


 でも、多分あいつの本心は……それを言っていたのは、テニスだけではなかったのだろう。


 このまま負けるくらいなら……敗北上等のリスクを取ったテニスをしてみろよ。

 あいつはさっき、俺にそう言った。

 それもまた、一つの逃げない、の形。


 今ならわかる。


 あいつの言う逃げるな。


 それは、今の状況から逃げるな、と言う強い言葉ではない。


 あいつは言っている。



 

 負けても構わないじゃないか。

 でもただ負けるくらいなら、出来ることは全部やってみろよ。




 あいつは、きっとそう言いたかったのだ。


 ずっと消化不良の気持ちが残っていた。

 負けたのに、負けたと認めたくなかった。だから、周囲から俺が負けたことを告げられるのが酷く不快だった。相手にされなくなるのが、嫌だった。


 負けるのが、嫌だった。



 そんな俺の奥底の感情を、あいつはきっとわかっていたのだ。




 足掻いてやる。

 相手は強敵。全国区の苦手なビッグサーバー。羨ましく思うくらいの高身長。


 負けるかもしれない。


 それがわかっていても……。



 足掻くんだ。

 足掻いてやるんだ。



 さっきまで、俺は平塚のサービスゲームのリターンの位置を、ベースラインの後ろに位置取っていた。速いサーブに対して、少しでも軌道を見切る時間を得るためだった。


 でも、俺は今リターンの位置を変えた。


 ベースラインより前に。

 相手のサーブの軌道をより短時間で見切らなければならない。しかも、平塚の速いサーブの。


 自殺行為だ。

 少なくとも、前までの俺ならリスクを思って出来なかった行為。


 でも今の俺は、そのリスクを鑑みず、そこでラケットを構えた。



 狙いは、二つ。


 一つは、ここまで平塚の1stサーブをそこそこ見れてこれたから。まだまだ返せるかは五分五分。でも、確実に軌道や球速には慣れつつあった。


 二つ目は、ここまでのあいつのサービスゲームでの失点の傾向を鑑みてだ。


 ここまでのあいつのサービスゲーム。あいつの1stサーブの成功率は6割程度。そしてその1stサーブのサービスエース率は3割くらいだろうか。

 つまり、ここまでサービスゲームではサービスエースよりその後のセットプレイでポイントを奪われている確率の方が高いわけだ。


 ここまでのあいつの得意パターン。


 それは、サーブで崩して緩く返ってきたボールをオープンコートに強打すること。単純でいて、それでかつビッグサーバーであれば最もわかりやすい得点パターンだった。


 そのあいつの得意パターンを考えると、自ずと答えは出てくる。


 俺がリターンの位置を上げた意味。


 それはなるべく前で返球し、あいつの次の返球までの時間を奪うことだった。


 サーブを打ってからリターンが返ってくるまでの時間はすなわち、平塚に行動を許す時間。その時間を奪えば奪うほど、あいつもプレイに余裕がなくなる。

 しかし、ラインを下げて取れば取るほど、どうしてもあいつに時間を与えることになってしまう。


 だからこそ、リスクを犯して俺はラインを上げたのだ。



 ……さて、策は弄した。

 後は、それが嵌るのかどうなのか。それだけだ。


 デュースサイドからの平塚の1stサーブ。

 辛うじて、俺のラケットにボールが当たるものの、返球で精いっぱいだった。フラフラと上がったボールを、平塚はスマッシュで叩きつけた。


 今の返球ではいけない。

 せめて、スライス気味で深めにセンターに返球せねば。

 センターへ返球することで、奴も返球に角度を付けづらくなる。そうして守備的に配球し、チャンスボールが来たら一気に攻める。


 それもまた簡単なことではない。

 勿論そんなことはわかっている。


 15-0。

 アドサイド。平塚のサーブが俺に襲いかかる。

 バックハンドで、何とかセンターにスライス気味のボールを配球出来た。しかし、浅かった。平塚は打球に回り込み、フォアハンドで構えていた。


 回り込まれた時点で、クロスかストレートかの二択。平塚はサーブだけでなくストロークの威力も高い。完全なる負けパターンだ。クロスに決められた。


 30-0。

 俺は大きく息を吸った。やることが明確なだけ、動きを単純化出来てきて反応は悪くない。次こそは……。

 スライス気味のワイドサーブ。コート外に追いやられたが……何とか、深めに返球出来た。


 そこからはひたすらに耐えるテニスだった。これまで俺達のテニスは攻めが互いに早かった。だからラリーも短かったが、今回は10を優に超えていった。

 なんとかタイミングを外したくて、ムーンボール気味の弾道が高い球を、俺は打った。


「むっ……」


 平塚の返球が、甘くなった。

 好機。ボールに回り込み、俺はフォアハンドでストレートに配球した。平塚はなんとかボールに追いつくが、スマッシュでエースを取った。


 30-15。

 再び、守備的な配球を行った。平塚も俺の狙いを察しだしたのか、ポイント有利な状況もあってリスクのあるダウンザライン。


「うぐっ」


 何とか追いつくが、ただ返球するのは負けパターンだ。俺は咄嗟にラケットを回して、ムーンボールを放った。

 一番の狙いは、平塚を前に出させないこと。二番目の狙いは、高い打球で時間を稼ぎ、少しでも態勢を整えること。


 その意図が功を奏した。平塚の返球が甘くなったのだ。

 俺は再び、先ほどと同様にボールに回り込み、フォアハンドのストロークで加点した。


 さっきのポイント、今回のポイント。


 ここまでただ耐えるだけで攻略の糸口すら掴めなかった平塚のサービスゲーム。

 ようやく俺は一つ、平塚の弱点を見つけた気がした。


 平塚は背が高い。思わず、羨ましいと思うくらいに。


 だから、平塚は凡人であれば高い弾道であるボールも丁度良い高さのボールとなっていたのだろう。それよりも弾道高いムーンボールの返球。奴は明らかに、それが下手だった。


 見つけた弱点に、思わず口角が吊り上がった。

 逃げるな、とあいつに言われ、これまでなら諦めていた場面でこうして足掻いて……すると意外にもあっさり、奴の弱点が見えてきたのだ。


 これならいける。

 でも、悟らせてはならない。

 相手に悟らせて、この好機を逃してはならない。


 今、久しく忘れていた感情が蘇りつつあった。


 歓喜。

 その感情を忘れないように、再び味わえるように。


 俺は、意地悪く粘りのテニスを続けた。そして、好機を見つけてムーンボール。


「よっし!」


 思わずガッツポーズをしていた。サービスブレイク。なんとか五分に試合を戻せた。


 そして、次の俺のサービスゲーム。


 多分、これまでと同じ攻めパターンはもう奴には通じない。

 ただ、さっき知った奴の弱点。それを軸に攻めパターンを変えること……どういう風に変えていくか。

 それをもう、俺は考え付いていた。




 高く跳ねあがるスピンサーブをボディに。




 恐らく平塚が一番嫌いそうなその配球を執拗に行った。これが第1ゲーム以来のラブゲームの要因へと繋がった。


 第10ゲームは、一方的な展開となった。


 まるで水を得た魚のように、さっきまで僻みに僻んでいた俺が意気揚々と奴の弱点を執拗に付き続けたのだ。

 平塚の顔に苛立ちが滲んでいるのがわかった。それがとても快感だった。だから一層、奴の弱点を責める結果となった。




 憧れたあのテニスプレイヤーは、華麗でパワフルで鮮やかだった。

 まるで海を跳ねるトビウオのように。

 パレットいっぱいに描かれた虹のように。


 そんなテニスが、俺は好きだった。

 だから、そんな華麗なセットプレイを学び、形にして、勝利を掴んできた。


 得られた栄光はかけがえのない物だった。


 でも、最近はそれが違って見えた。

 あの栄光があったから、俺は今ここまでくすんでしまった。


 あの栄光さえなければ、俺はきっと今もテニスを楽しめた。



 あれが、俺の人生最大の功績であり、汚点。



 でも違った。


 汚点なはず、ないじゃないか。


 ただ、俺が目を背けていただけ。




 ただ、俺が逃げていただけなんだ。




 足掻くことから。

 逃げ出さないことから。


 自分のテニスを、見つめ直すことから。


 確かに俺は、背が低い。

 でもそれは、俺がテニスにとって不能の要因でもなければ、弱者になる原因でもない。


 今、ようやく俺は自分のテニスの一片を見つけた気がした。




 ようやく俺は、自分の好きな物を好きだと、再確認出来た。




 それを気付かせてくれたのは、紛れもなく……あの、変態だった。




 もしかしたらあいつは……とっくの昔から気付いていたのかもしれない。


 ……いつものように。




 俺のこと、なんでもお見通しだったのかもしれない。




 ゲームセットアンドマッチ

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