布教活動

 スマホを風呂場に持ち込むことは生まれて初めてだった。防水機能があるとはいえ、それが果たしてどこまで効果的に働くかわからないし、未然に防げるリスクは取らないのが俺の主義だった。


 さっきの風呂で髪は洗ったし、今回は本当に湯舟に浸かるだけにしようと思った。


「ふうぅぅ」


 風呂に体を浸けて、まもなく俺の口から染み渡る快感に酔いしれる声が漏れた。ああ、気持ち良い。思えば最近、こうしてゆっくりと湯舟に浸かる時間も減っていた。どうしても忙しい日に、ゆっくりと湯舟に浸かろうと思わなかったからだ。昔は優先事項としては上位にいたのに、気付けばお風呂もそこまで優先的に時間を取ろうと思わなくなった事項。

 ただまあ、体のことを思うなら結衣の言う通り、大事なことだったのだろうなあ。


 しみじみと思っていると、知らない番号から電話が来た。


「もしもし」


 密閉され反響する声で言った。


『あ、もうお風呂?』


 電話の相手は、件の問題児。


「お前がさっさと入れって言ったんだろ」


『うん。まあそうなんだけどさ』


 電話口から聞こえる結衣の声は、どこか楽しそうだった。

 半身浴する俺に付き合って電話する。その行為のどこに楽しい要素があるかわからなかったが、まあ楽しそうならそれでも構わなかった。


『……どうだった、今日の試合は』


 少しだけ優しい声色で、結衣は俺に尋ねてきた。


「……悔しかったよ、それだけ」


『そうだね。平塚君、やっぱりサーブの調子が良かったよ』


 さっき試合とは別件で思い出した男の名前に、複雑な顔を俺は作った。


『あれは中々返せないよね、まあリターン位置高めにした割には攻められていたんじゃない』


「……そう?」


『うん。あと、終盤のコードボール。あれは……なんだか、昔のあんたを見ている気分になった』


「それは、俺もそう思う」


 あの時は、ただ楽しいことだけしか頭に残っていなかったし、楽しむためのプレイだけに飛びついていた記憶だ。


 ……ただ、結局俺は負けた。負けたのだ。


『……さっきも言ったけどさ』


 結衣は、そう前置きをして続けた。


『負けだけど、見えた景色はいつもと違ったんじゃない?』


「……うん」


『今日のあんたは、凄かったよ。自慢しても良いくらい。厳しい人を相手に三戦も戦い抜いて、それで二勝一敗。屈辱の相手に雪辱も果たせた。今日のあんたのことを元天才少年だなんていう人、試合後には多分いなかったんじゃないかな』


「……そうかな」


『そうだよ。今日のあんた、カッコよかった』


 ……半身浴のせいか。はたまた、こいつのせいか。

 顔が熱かった。


『ありがとうね』


 そんな俺に、結衣は唐突にお礼を言った。

 何に対するお礼なのか。


 反応に困って、察した。




『……その……今日の、凄かった』




「あ、はい」


 ブレない女。

 結衣がちゃんと試合を見てくれていたことが嬉しい、と一瞬思ったのに。

 結衣の慰めが心に響いた、と思ったのに。


 興冷めだよ……。


『今晩も使わせてもらう。本当、あんたに……テニスウェアに感謝だね』


 テニスウェアを強調する当たり、こいつが俺とテニスウェア、どっちに深い感謝の念を抱いているかは明白だった。


「お前、本当ブレないよな。本当、宗教家みたいだ」


『宗教なんかと一緒にしないで。あたしはあんたのテニスウェアで私腹を肥やそうだなんて思わない』


「私腹を肥やそうと思わない。じゃなくて、私腹を肥やせないと言ってくれ」


 それだと、やろうと思えばやれるように聞こえてしまう。こいつみたいなインパクト大の変態、一人で十分だ。


 ……いや本当は、一人も要らないんだけどね?


「お前、俺のテニスウェアの布教活動なんてしていないよな?」


 言い終えて、なんだか凄い自意識過剰な物言いをしてしまったことに気が付いた。

 でもこいつ、心酔しているのは俺にではなく俺のテニスウェアにだし。

 こういう人種って、他所にも自分の好きな物を伝え広めようとするきらいがあるし。


 布教活動をされていても不思議ではないと思ってしまったのだ。




 ……結衣は。




 中々どうして、何も言わなかった。


「……え」


 半身浴中なのに、俺の肝が冷えた。

 まさかこいつ……。




『してないから』




「今の間は?」


 再び、無言。


『オッホン』


 そして、結衣の咳払い。


『違うの』


「何が」


『……もう、してない』


 つまり……。


「前はしてた、と」


 無言。


「ふぇぇぇぇ……」


 泣きそう。凶信者、こいつ一人では済まないの?


『違う』


「何がだよぅ……」


『……あたしが布教活動したのは、一人だけ。あの頃のあたしは若く、幼稚だった。だから、自分の良いと思っている物を色んな人に知って欲しかった。でも、今よりも良識もあったから……だから、精鋭にだけ教えた』


「余計質が悪いじゃねえか」


『でも、今は向こうは卒業してる。そんな変なのに絡まれた記憶、あんたないでしょ?』


「まあ」


 珍しく、結衣の声色が慌てているのがわかった。

 もしかしたら彼女にしても、かつての布教活動は黒歴史なのかもしれない。


「……まあ、卒業してるなら」


 少し考えて、俺はそう結論付けた。それで結論付けられるところに、俺の感覚もマヒしているなと思わされた。


「そうだよな。お前みたいな変態……早々定着しないよな」


 ならば、俺の安心安全は確保されているはず。もう、それで良いと思った。これ以上悩むと俺、本当に心が折れそう。


『うん。大丈夫。……大丈夫、大事にはならないように、尽力するから』


 その含みある言い方、少し不安が残るんだけど。


 ……本当に大丈夫なんだよね?

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