問題児からの電話

 夕飯を食べ終えて、明日へ筋肉痛を残さないようにと一人自室でストレッチに励んでいた。歯も磨き、シャワーもさっき浴びて、少し明日の授業の予習をして眠りに付こうか。

 そんなことを俺が考えている折のことだった。


 コンコン、と部屋がノックされた。


「お兄ちゃん、起きてる?」


 その声は、加奈だった。

 こんな夜分にこうしてあいつが俺に声をかけてくるのも珍しい。

 ……また、勉強教えてくれ、とかそう言う話だろうか。嫌だなあ、別に、まだ中学生の加奈に勉強を教えること自体はやぶさかではないのだが、加奈に教える代わりに自分の時間が削られるのが嫌だった。ただ、あれほどいつも我が家のために献身的に働いてくれている妹に、そんな文句を言うのもおかしな話。


「起きてるよ」


 であれば、ここは勉強の一つや二つ、教えてあげようではないか。

 久しぶりに兄貴風を吹かしながら、俺は言った。


「起きてるって」


 ……が、扉を開けた拍子に聞こえてきた加奈の言葉に何かを悟った。

 俺が起きている、ということを、加奈は今誰かに伝えていた。下にいるであろう両親ではないだろう。であれば、もっと大きな声で加奈は報告をするはずだ。

 加奈がそうしなかった理由。

 それは報告する時に大きな声を出す必要がなかったから。


 例えばそう、電話越しに誰かに伝える、だとかそんな感じ。

 

 予想通り、加奈は右耳にスマホを押し当てて部屋に入って来た。折角、勉強を教えてあげようと思ったのに。どうやら当てが外れたらしい。


 ただ、であれば一体加奈は何の用事でこの部屋に入って来たのか。

 また、今あいつは誰と電話をしているのか。


「ん」


 電話相手を告げることもなく、加奈は俺に自分のスマホを手渡してきた。


「誰?」


 思わず、尋ねていた。




「結衣ちゃん」




「えぇー」


 嫌な声が漏れた。

 さっきまでの常軌を逸した結衣の話を聞いて、今日はもう結衣の話はお腹いっぱいだった。


「寝たって言ってよ」


「無理。さっきもう起きてるって言っちゃった」


 素面で言う加奈に、確かにさっきそう言っている現場を目撃したことを俺は思い出す。


 嫌々、俺はスマホを受け取った。


「もしもし?」


『もしもし。こんばんは』


「……こんばんは」


 あの人にしては、中々畏まった入り方。……と、そこまで警戒するのはさすがに酷いか。

 もしかしたら明日の朝練の業務連絡とかかもしれないし。




『今日はもうお風呂入った?』




 あー、いつものやつだ。めんどくせー。


『あんた今、面倒臭いって思ったでしょ』


「……口から漏れてたか」


『いいえ、そう思っただろう気配を察知した』


 お鋭いことで。

 

「……で、何だよ。もう入ったよ、お風呂くらい」


 ……そもそも。

 それ、妹である加奈のスマホを借りてまで俺に聞くことか?


『本当?』


「ああ。……少しだけだけど」


『駄目じゃん。ちゃんと時間をかけて湯舟に浸からないと疲労は取れないよ』


 ……真っ当な苦言である。

 でも、言っているやつがこいつだと思うと少し下心を感じてしまう。


 ……そもそも、二度目だが。これ本当に加奈のスマホを借りてまで話すことなの?

 すまんな妹よ。お兄ちゃんが結衣と連絡先の交換をしていなかったばっかりに。


「まさか、そんなことを話すためにお前、こんな時間に加奈の携帯を鳴らしたのか?」


『そんなことって。あたしはあなたのためを思って言ってるの。明日筋肉痛残って練習出来なかったらどうするの。平塚においていかれる要因を自分で作ってどうするのよ』


「うぐ……」

 

『あれほど悔し涙を流してたから、……ひと段落付いたし心配で電話したの』


 何がひと段落ついたかは聞かない方がよさそうだ。


『それに、加奈なら大丈夫よ。あの子お兄ちゃん大好きっ子だから。あなたのためなら何でもするのよ、あの子。そうじゃなきゃ、テニスで忙しいあなたのためを思って家事の手伝いを買って出たり、あたしの性癖のことを隠そうだなんて取り計らないでしょ? 三度の飯、ネットサーフィンよりお兄ちゃんの幸せを願う子よ、あの子は』


「……それは本人に聞こえない場で話すようなことではないな、嬉しいけど」


 加奈に目配せをすると、可愛らしく小首を傾げた。良かったな、結衣のカミングアウトを聞かずに済んで。お兄ちゃん的には嬉しいけどね?


「わかったよ。ちゃんと湯舟に浸かってくる」


『うん。それが良い』


 納得した俺に、結衣は嬉しそうな声色で続けた。




『ちゃんと半身浴するんだよ? 三十分以上!』




 ……狙いはそれかー。

 半身浴と言えば、新陳代謝を上げる行いとして手軽で有名な行為。この女、こっちの体に気を遣うようなことを宣うけれど、結局はそういう下心を持って話してきやがる。


 文句を言おうと思ったが、言葉は引っ込んだ。

 ……まあ、確かに体に良いことではあるからな。新陳代謝を上げることは、健康的な体を作る上で極めて重要なことだし、あくまでこいつの利益は俺の健康を促進する上で副産物として得られるもの。

 これが、win-winの関係ってやつか。


「わかった、わかった。お風呂で半身浴してくればいいんだろー?」


 まあ、一先ず湯舟には浸かるか。三十分も入るかは別として。勉強もしたいし。


『……やけに素直ね』


 そんな俺を、結衣は訝しむ。


「結局体に悪いことをさせられるわけじゃないし、文句を言う必要もないと思っただけだ」


『……怪しい』

 

「えぇ? どこがだよ」




『……本当に、ちゃんと三十分以上お風呂に入るの?』




 ……こいつは本当、自分の私利私欲のためとなると抜け目がないし隙がないな。


『電話番号を教えて』


「えぇ……?」


 唐突な提案に、嫌な声が漏れた。


『ちゃんと三十分以上入るように、あんたがお風呂に入ってる間ずっと電話しててあげる』


「えー」


『……だから、ちゃんと湯舟に浸からないと駄目だよ?』


 ……そう献身的な言い方をされると、一瞬こいつが俺の身を案じてそう提案してくれている気がしてくるから困る。


「……わかったよ」


 仕方なく、俺は遂に結衣に俺のスマホの電話番号を教えるのだった。

 まあ、これまでも別にこいつに電話番号を教えることを拒んでいたわけではない。ただ、敢えてあいつの電話番号を知りたいと思ったことがなかっただけ。


 ただ、それだけなのだ。


 家族と従兄弟くらいしか入っていなかった電話帳に、新たな名前。

 それくらいで嬉しいだなんて、そんなことを思うな。


 そう、自分に言い聞かせた。

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