勇気

 小さい頃はただテニスが楽しかった。

 まるでダイヤモンドのように、磨けば磨くほど美しく眩く輝く宝石のように。練習する度、自分の成長を実感出来た。出来なかったプレイが出来るようになるのが楽しくて、課題が出来るようになって行く度に与えられた新たな課題をクリアしていくのが楽しくて。


 のめり込んでいった。


 試合に出ても、向かうところ敵なしだった。

 本当に。あの頃の俺は……自分が負ける日が来ることなんて、予想もしていなかったのだ。


 初めて俺が負けたのは……同い年で、俺よりも背が低い男だった。今では身長百八十センチを超す長身になったが、当時の塩田君は俺より背が低かったのだ。

 そして塩田君は人見知りで、試合前の握手の時も、碌に俺に目を合わせようとしなかった。


 勝った。

 試合の始まる前から、俺はそう思って疑わなかった。


 こんなちっちゃい奴に。

 こんな臆病な奴に。


 こんなひ弱そうな奴に……。




 負けるはず、ないんだって。




 試合中、何度そう思い悔しがり、歯を食いしばってボールを追いかけたか。

 無残な結果だった。


 これまでは大会に出れば、ずっと優勝のトロフィーをもらってきた。




 そんな中、初めて手にした大会準優勝の盾は……帰りの駐車場で、地面にたたきつけてぶっ壊した。




 親に叱られた。

 でもそんなこと、俺は一切気にすることはなかった。


 その次の日から、練習に明け暮れた。

 来る日も来る日も。


 全ては、あの男。




 塩田順平に勝つために。

 



 しかし、俺の努力が報われることはなかった。


 たくさん練習をした。

 たくさん走った。

 たくさんガットを切った。




 たくさんボールを打ってきた。




 でも、たった三勝だけなんだ。


 どれだけ練習しても。

 どれだけ走っても。

 どれだけガットを切っても。



 どれだけ……ボールを打っても。




 俺の得られた成果は……三十七の試合の内、たった三回だけだったのだ。




 だから……いつしか俺は、テニスが嫌いそうになったのだ。




 ベンチに座りながら、一セット目を奪取された現状に……気付けばマイナス思考に陥っていた。いつも、塩田君と試合をする前、俺はこんなナイーブなイメージを抱いていた。

 そのまま試合に臨み、そうして負けて……いつしか彼との試合がトラウマに近くなっている状態であった。


 でも、今日は違う。


 今日こそ、四勝目を。


 そう思っていたのに……。


 再びナイーブな気持ちに襲われかけて、俺は首を横に何度も振った。

 顔を叩いて、気を取り直すことを先決した。


 ビンタの音が、静かな会場にパチパチと響いた。


 周囲から異端の目で見られようが、気にはならなかった。


 負けたくない。

 このままでは負ける。このままでは呑まれる。


 呑まれたくない。




 負けたくない……!




 そう思うのに、少しでも気を抜くと嫌なことばかり考えてしまう。


 ……落ち着くんだ。

 大きく息を吸って、俺は気持ちを整えようと努めた。


 今のセットの敗因は明確だった。


 最初の二ポイント。いつもの塩田君との試合における負けパターンでポイントを連取されて、気持ちが乱れた。

 そのゲームを落として、第二ゲームであっさりサービスゲームをブレイクされた。


 そこからは互いにサービスゲームをキープ。ただ、ブレイク出来なかったからセットを取られただけ。


 それだけじゃないか。


 サーブの出来は悪くない。

 特に、ワイドサーブは俺にしては珍しく既に十本はサービスエースを奪っている。


 大丈夫。

 大丈夫だ。


「タイム」


 サービスゲームをキープすれば、試合には負けない。


 後は、塩田君のサービスゲームをブレイクすればいいだけ。




 ただ、それだけじゃないか……!






 ……どうやって?


 今日の塩田君だって、サーブの調子は良い。

 フォアハンドストロークの精度も、すこぶる良い。


 そんな塩田君から……不利である塩田君のサービスゲームを、どうブレイクする?




 サービスブレイク出来るビジョンが、見えなかった。




「ゲーム塩田。0-1」




 あっさり、サービスゲームをブレイクされた。


 気持ちが……乱されていく。


 負ける。




 ……また、負ける。




「ゲーム塩田。0-2」


 どれだけ練習しようが。


「ゲーム塩田。1-3」


 どれだけ走ろうが。


「ゲーム塩田。2-4」


 どれだけガットを切ろうが。




「ゲーム塩田。3-5」




 ……どれだけ、ボールを打とうが。




 ……また、俺は負けるのだ。






「がんばれ」

 



 聞き馴染みのある声だった。


 試合中にも関わらず、気付けば背後を振り向いていた。


 突然が俺が振り向いたから、ザワザワと騒がしいギャラリー。

 ただそんな周囲の姿や顔は……まるで見えてこなかった。




 今、俺の視界に写っていた人は、ただ一人だけだった。




 がんばれ。




 今、その人が言ってくれた言葉。


 どうしてそんなことを言うのだろうか。


 このまま行けば俺は試合に負ける。

 また俺は、塩田君に負けるのだ。




 その人は、俺の匂いにしか興味がないような人だった。

 自分の営利目的のため、俺を走らせ、俺を追いこみ……そうして生成されたテニスウェアを喜んで嗅ぐそんな奴。




 ……なのに。




「……おかしいじゃんか」




 試合には負けている。

 でも確かに……お前の望みは今、まさしく叶いつつある。


 お前の好きなテニスウェアは、お前の好みに作られつつある。




 お前にとって俺の勝利は……どうでも良いことなんじゃないのかよ。




 ……なのに、なんで目も暮れないんだよ。




 テニスウェアには目も暮れず、なんで俺の勝利を祈るように手を組んで目を瞑って……懇願するように願っているだよっ……。




 ……ああ。


 ああ、そうか。




 お前は、俺のことをいつも見抜いていた。




 テニス部を辞めようとしているのに、本心では未練があったことも。

 

 難敵を打ち倒したことで、俺が嬉しくなっていることも。





 負けたくないって、本心ではそう思っていることも……!




 お前は、全部見抜いていたんだ。


 だからお前は……俺の勝利を願ってくれているんだな。




 でも、無理だ。無理なんだ。


 わからない。


 ずっと負けてきたから。

 三回しか、勝たせてもらったことがないから。


 わからない。


 わからないんだよぉ……。




 塩田君を……あいつをっ、どうしたら倒せるかっ!!!




『じゃあさ、約束してよ』




 そんな時、俺は思い出す。




『逃げないって、約束してよ』




 この前あいつに……結衣に懇願された、約束を。




 ……いつかもそうだった。

 ビックサーバー平塚との試合も……俺は強敵相手に僻み、負けを悟り諦めかけ……そしてあいつは、俺に逃げるな、足掻け、とそう正した。




 逃げるな。




 辛いことから。

 テニスから。




 ……逃げるな。 




 試合の勝ち負けにこだわった発言ではなかった。

 試合に勝とうが、負けようが。


 抗え。

 足掻け。



 あいつはただ、そう言いたかったのだ。


 ……だって。


「チクショウ……」


 だって、もしこのまま負ければ……。




「チクショウ。……チクショウ……ッ」




 また俺はテニスが嫌いになる。

 また俺は塩田君がトラウマになる……。




 そして、後悔をする。

 抗わなかったことに。

 足掻かなかったことに。


 自分が嫌になり、自罰的になり……テニスを辞めたいと宣って、そうして俺は……また後悔をする。




「チクショウッ!!!」




 ……そうだ。




 そうだよな、結衣。


 このまま行けば、どっちにせよ俺は負ける。




 また負けて後悔するんだ。




 だったら……。




「約束するよ」




 結衣が、ゆっくりと俺を見た。




「もう、逃げない」




 ……だったら足掻いてやる。抗ってやる。




 ……逃げないでやる。




「俺はもう……逃げない」




 だから見ててくれ。



 ……俺のことは微塵も好きじゃないけれど。

 ……俺のテニスウェアしか眼中にないけれど。




 誰よりも俺を理解してくれる……幼馴染。




「君に見てて欲しいんだ」




 ゆっくりと、俺は踵を返した。






「がんばれって。勇気をくれた君に、見てて欲しいんだ……」

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