難敵

 根津君相手に消耗戦に持ち込まれることなく勝利を収めた俺は、コートを出る途中、金網の向こうにいる結衣と目があった。


「思ったより、汗掻いてない……」


 残念そうに、結衣が言う。

 いつもなら呆れるようなそんな場面なのに、俺は難しい顔のまま結衣に迫っていた。


「お前……凄いな」


 尊敬の念。

 こいつの指示する練習通りにして、その結果、以前に比べて大飛躍を遂げた自分を鑑みて、そんな感想以外沸いてこなかった。


「……前にも言ったでしょ?」


 そんな俺に対して、結衣は微笑んでいた。


「あたしならもっとあんたのポテンシャルを引き出せた」


「……それは」


 それを言われたのは、確か保健室。

 発言の衝撃さ相まって、未だにその言葉、その時のこいつの悔しそうな顔は脳裏に焼き付いていた。


 ……ただ。


「お前それ、そんな格好良さげな場面で言ってなかったけどな?」


「あ、そうだった?」


 匂いのため、悔しがる姿を見せた後なんだから、振り返る言葉としてこれほど格好がつかない言葉もないだろう。


 ただ、あっけらかんと微笑む結衣に、俺も釣られて笑った。


 会場に到着した時より、心が軽かった。

 いつもそうだった気もする。一番最初の試合が一番緊張して、勝ててホッと一息付けたら、後は平常運転だった気もする。


 そう思ってまもなく、塩田君との試合前の自分の姿を思い出した。

 彼との試合前、俺はいつも逃げだしそうな気持ちを堪えるのに必死だった。彼に勝ちたい。でも勝てない。勝てないとわかっているから、逃げたい。


 でも、逃げられない。


 そして負けて……悔しさから唇を噛み締めて。


 そんな負けた後の光景まで、試合前からずっと見えていたのだ。


 だからずっと気落ちしていた。


 でも、今は違った。冗談を言える程度には、まだ大丈夫だった。




 明らかに精神的にいつもと違うことがあった。


「お前のおかげだな」


 結衣のおかげで。

 結衣が変態のおかげで……一筋の光明が見えた。


 勝てるかも、とそう思えたのだ。




 こいつは突然、何を言っているのか。

 結衣の顔は困惑一色だった。


 でもまもなく、結衣は意地悪い笑みを見せた。


「あたしのおかげ?」


「うん」


「本当に?」


「……うん?」


 ……あ(察し)。

 これ、あれだ。また変なお願いされるやつだ。


 試合に勝って、成長した自分を見られて。

 それがこいつのおかげとわかっていて……感極まって、思わず変なことを言ってしまった!


 ……ど、どうしよう。


 戸惑う俺に、


「じゃあ、次の試合も勝って極上の匂いを嗅がせて頂戴」


 結衣は、微笑んだ。


 次の試合も。

 次の試合……塩田君にも勝って。




「わかった」




 今回ばかりは、こいつの変態さが俺の心の支えだった。

 だから俺は、意気込んでそう頷いた。


 運営から準々決勝の呼び出しのアナウンスが会場に響くまで、我が校の連中が陣取った場所ではなく、用具のある倉庫の前で一人精神集中に励んでいた。


 宿敵との試合の前に……一人になりたかった。

 サーブを取れたらどんなパターンで攻めようか。その際、相手はどんなパターンで攻撃してくるか。

 サーブを取られたら?

 リターンはどこに打つか。そうしたら相手は……。


 試合前にはいつもしている作業。


 でも今日は、少しだけ違う気持ちでそれをすることが出来た。


 いつもよりも、俺の気持ちは前向きだった。あの女のおかげで。


「そろそろ呼ばれる」


 そう呼びに来たのは、結衣だった。


「……うん」


 俺は立ち上がった。


 運営から呼ばれた場所に行き、ボールを手渡され、塩田君と相対した。


「根津君との試合、見てたよ」


「……俺はお前の試合、見てなかった」


「倉庫の前にいたね」


「うん」


 ……ん? なんで知ってる?

 ま、まあいいか。


「今日も頼むよ、僕の好敵手」


 笑顔で、塩田君に言われた。

 いつもなら腹が立つ塩田君の言葉。

 俺には荷が重い塩田君の好敵手、と言う言葉。


 しかし今は、不思議とその言葉に向かい合えそうだった。


 コートに着いてサーブリターンの練習をし、サーブの先攻後攻を決めて……。


「ザベストオブ3セットマッチ。塩田サービストュープレイ」

 

 試合が、始まる。


 黄色いボールが、宙を舞う。


「はあっ」


 塩田君のサーブがワイドに流れる。

 平塚には及ばないとはいえ、速いサーブ。


 それを俺は、スライスでセンターに返球。


 ……塩田君の武器は。


「はっ」


 強烈な、フォアハンドストローク。

 コントロールも良く、威力も抜群。


 だから俺は、角度を付けさせないようにセンターに返球した。しかし、塩田君はフォアハンドストロークでライジング気味に深い返球。打球が詰まって、俺はネットした。


 塩田君の武器はフォアハンドストローク。

 だからまず、それを対策することが勝利への鉄則。


 フォアハンドストロークの対策。それはバックハンドを徹底して狙うことが一番に上がるだろう。しかし、それはまだ出来れば温存したかった。バックハンド狙いがバレれば、それは塩田君はリスク混みで打球に回り込んでフォアハンドを狙う礎になる。

 出来れば、塩田君からリスクなくポイントを奪えるのが俺の理想。


 だからまずは、定石外から攻めようとそう思っていた。


 故に、センターへの返球。

 スライス回転のかかった低いバウンドのセンターのボールは、打球の角度が付けづらい。そうしてフォアハンドを打たせつつ、相手に角度を付けさせないように立ち回り、ミスを誘う。

 それが俺の狙いだった。


 しかし、俺がミスしたら元も子もねえ……。


 タイミングの早いライジング気味の返球に、見事タイミングを外された。


「15-0」


 ……次はこうはいかないぞ。

 さっきのミスを反省しながら、繰り返さないように反芻し……俺は構えた。


 アドサイドからのサーブ。これも威力は強烈。


 角度を付けられず、フラフラした返球が塩田君のコートに返った。あっさりと決められ、塩田君のポイント。


「30-0」


 ……たったの2ポイント。

 たったそれだけ先取されただけなのに。


 俺は焦っていた。


 サーブで崩され、ストロークで崩され。




 それは、いつも塩田君にされていた負けパターンそのものだった。




 ……あの匂いフェチの女に言えば怒られそうだが。


 今俺は、背中に嫌な冷たい汗が伝っていた。


 あいつとの特訓のおかげで、俺は前に比べれば大いなる飛躍を遂げられた。

 あの根津君相手に圧勝出来るくらい、強くなれたのだ。




 ……なのに。




 結局、塩田君には勝てないのか?




「ゲームアンドファーストセット。塩田。6-4」

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