厄介な後輩

 電車の中で結衣が振舞ってくれたおにぎりを頂いて、それから少し寝不足であることを彼女に告げた。意外にも、結衣はそうであれば寝るべきだと俺を諭した。

 そんなことを言っている内はまだ寝なくて大丈夫! だとか。

 そんなことより移動中でも出来る筋トレをしなさい! だとか。


 もっと酷いことを言われると思っていた俺からしたら意外な言葉。

 だから俺は、考えるよりも早く結衣に理由を尋ねていた。


「あたしは別にあんたにストレスをかけたいわけじゃない。極上の匂いを探求しているだけなの」


 意外にも腑に落ちる言い分に、感嘆の声を上げていた。

 ただこいつの言い分は、もし俺にストレスをかけることで極上の匂いが得られるならそうする、ということ。


 嗚呼、そういう体に産んでくれなかった母に。父に。神に。心から感謝致します……。


 何ておふざけもそこそこに、俺はさっさと眠りに付いた。

 結衣は寝る間際、隣で見ていてあげるから、と付け足して俺の睡眠を見守ってくれた。


 パシャリ


 俺が目を覚ましたのは、大口を開けて寝ている中、突如として響いたシャッター音に驚いたためだった。


「……なんだ?」


「さあ?」


 白を切る結衣に、寝ぼけている俺は深い思考を手繰らせることが出来なかった。


「ああ、そう」


 そう言って、もう一度眠ろうと思った。


「駄目」


「なんで。俺にストレスを与えたいわけじゃないんだろ?」


「もう着く」


 ああ、そう。

 寝ている時間は、本当に過ぎるのがあっという間だ。


 それから結衣と一緒に通学路を歩いた。話した内容は彼女の組んだ練習メニューの詳細の説明。そしてそれにより得られる効果。

 彼女はいつも、こうして事前に俺にその日組んだ練習メニューの意図を伝えてくる。


 どういう意図があるかわかった上で練習すれば、その意図を汲んで、どうすればより効果的になるか自分でも考えるようになるでしょ?

 そんなことを結衣は言っていた。

 まあ、自分の意思だけで完結せず周囲の意思も汲もうとする姿勢が、実に彼女らしい。


 そんな彼女がただ自らの欲望の限りを尽くすテニスウェア。最早元凶はテニスウェアなのではないだろうか。俺は少し、自分が身に纏うそれが怖くなった。


 そんな調子で学校に辿り着くと、俺達は別れた。俺は部室の鍵をもらいに職員室へ。結衣はテニスコートに先に行き、雑務を始める。

 そういう手筈になっていた。


「あ」


 ただ、その手筈が狂う出来事があった。

 職員室の手前の階段で、俺は一人の男と出会う。


 忘れもしない憎き長身。


「どうも、先輩」


 平塚だった。平塚は、悪感情をなるべく顔に出さないようにしているのか、引きつった笑みを浮かべていた。


「おはよう、早いな」


「先輩こそ、サボり魔の癖に」


「最近はちゃんと出てるだろ」


「僕は入部してからずっと、ちゃんと出てますよ」


 それは……偉いな。俺も見習いたいものだぜ。


「そっちから来たってことは、部室の鍵は?」


「あります」


 チャリンと平塚は、右手に持った鍵を見せてきた。


「でも先輩は一旦職員室に行ってください。なるだけ先輩の顔を見たくない」


「いや、それは知らん……」


 癖の強い後輩だねえ。


「……どっちにせよ、部室でまた顔を合わせることになるけど、それは良いの?」


 一先ず、俺は諭すように平塚にそう伝えた。

 ここまで言うのであれば俺の顔も見たくないはず。でもどうせ、俺達また部室で顔を合わせるんだよな。本当に良いのかよ、それは。


 平塚は、目を丸くしていた。

 どうやらそこにまでは考えが至っていないらしかった。真っ先にそこに至りそうなものなのに、不思議な子だ。


「もう良いです。さっさと行きましょう」


「おう」


 それから俺達は、二人で部室を目指し歩き出した。俺の隣で、平塚はああでもないこうでもないとブツブツ呟いていた。

 そんなこいつの調子に、俺は少しおかしいと思い噴き出しそうになっていた。


 この前試合した時は……いきなり結衣に告白するだの、思えば変人の片鱗を見せていたこいつだが、どうやら思った通りの男だったようだ。勿論、褒めている。


「……いやー、それにしても。早起きは辛いなあ」


 そんな平塚の調子に気を良くした俺は、世間話交じりに背筋を伸ばした。


「先輩、この程度の早起きが辛いんです?」


 平塚は、呆れたように言った。

 ただ呆れるように言う平塚に、俺は少し驚いた。この程度って、まだサラリーマンでも寝ている人がいるような時間だぞ。


「お前は辛くないの?」


「当然。この部活に入ってから、朝練一番乗りは僕の独壇場です」


「ほへー」


「テニスがもっとうまくなりたい。そう思うなら、一分一秒が惜しいと思うのは当然だ」


 虚を突かれた気分だった。


「お前、凄いな」


 自分が億劫だと思っていたことを、当然だと言う人間に……偏屈な奴だと思っていたこの後輩に、俺は尊敬の念を抱いたのだった。


 ただ、思えばそれは当然のことだった。


 人より上手くなりたいなら、人よりたくさん練習をする必要がある。

 人にさせられるのではなく、自分で進んでやっていく必要がある。

 人にやらされているようでは人より優れていくだなんて無理な話である。


 そんなこと、少し考えればわかるような話だったのだ。


 よく見れば平塚の体つきが……数週間前に試合をした時より微かに大きくなっているのがわかった。


 こいつは今の言葉通り、一分一秒を惜しみ、一分一秒でも多くの時間をテニスに注いできたのだろう。

 こいつのテニスにかける情熱は、確かにこの部にいる誰よりも熱いものなのだろう。




 それに対して、俺は。

 テニスを続けてきて、逃げようとしてきて。


 一度でも俺は、頑張る方向に舵きりをしようと思ったことはあったか。人間は誰しもが楽な方向に進みたがる生き物。

 楽な方へ、楽な方へ。進む生き物だ。


 そうはせず、辛い道を進んでいくことは大変な話だ。


 俺だって……どっかの変態がいなければ、こうして今みたいないばらの道を進もうとすら思わなかった。

 だから俺は……所詮、全国でも中堅どまりだったのかもしれない。



 ただ、こいつは……。



 こいつは、こいつの持つ思想は。

 自らの欲のため、いばらの道も平気で進むこいつの思想は……。




 きっと将来、トップになりうる思想なのだろう。




 そして俺は、そういう思想を持つ人間を、他にも知っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る