厄介な好敵手
東京都高等学校テニス選手権大会。所謂インターハイ予選が開始されてしばらく日数が経過した。まもなく本戦出場選手が決まり始まる今日この頃、俺は彼らの試合を見にコートにまで視察に来ていた。
しかし、早速嫌なことに見舞われていた。
「……なあ、あれって」
「ああ、間違いねえよ」
「天才少年」
ヒソヒソと聞こえてきたのは、一応この分野では有名人な俺の噂話。視線。声。どちらも丸聞こえのそれは正直噂話と言うには脇が甘い。
小さい頃からこの手の噂話にはしょっちゅう見舞われてきた。小さい頃は、まあ別に嫌な気持ちはなかった。
羨望の眼差し。畏怖している表情。
自分より少し大きいくらいの同学年、か少し上の子供が見せるそんな反応は、正直に言って気持ち良かった。
でも、今はその気持ちも薄れてきている。
「バカ、ちげえよ」
「ああ、そうか」
その理由は、あまりにも明白。
「元・天才少年!」
羨望の眼差し。畏怖する表情。
連中は、今や俺にそんな気持ちの良い反応を見せてくれることはなくなった。今あいつらが見せる反応は……ただの嘲笑。
だから、こうして目立つことが俺は嫌いだった。
そんな連中の下衆な視線に気分を悪くしながら、会場を歩いた。コートから聞こえてくる打球音。叫び声。聞き慣れたそんな光景を聞いていると、淀んだ気持ちが微かに快復して言っている気がした。
……が、今はそんなことはどうでも良い。
今日、俺がここにやって来た理由。
それは、まあ簡単に言えば敵情視察。
そろそろ本戦出場者が決まるということは、つまりこの中の半数がこれから俺のライバルになる、と言うこと。
いつもならさっきみたいな下衆な視線を嫌がって会場に訪れることはなかったのだが……どうしても行け、とうるさい人が一人いたから仕方なくやって来たのだ。
「あ、やっと来た」
気だるげに会場を歩いて、ブルーシートを囲む見覚えのある集団。その中の紅一点。もとい幼馴染。
結衣は、遅れてやってきた俺を咎めるように怒り交じりの口調で俺の方へズカズカとやって来た。
「誰が遅刻して良いって言った?」
「ごめん。道に迷った」
頭を掻いて、適当な嘘を吐いた。
「しょっちゅうここに来ていた癖に?」
ここはしょっちゅうテニスの大会に利用されるような会場。そんな場所、小さい頃から都内近郊の試合に出まくっていた俺がわからないはずがない。
「ほとんど親に、車で送ってもらってたから」
でも、嘘を付くと決めたから、俺は再び誤魔化すように言った。
「三時間も道に迷ってたの?」
しかし、こう言われてしまえば次の言い訳は浮かんでこなかった。確かに、集合時間から三時間の遅刻は、言い訳のしようがない。
何かこの断罪ムーブから逃れる術はないか。
そう思って手頃なコートを見ると、見覚えのある巨体。
「おっ、平塚試合やってんじゃん」
「ちょっと、まだ説教は終わってない」
結衣を躱して平塚の試合を見物しに行った。
途中また、元天才少年だとヒソヒソ話が聞こえたが、それも華麗にスルーした。
平塚の試合は、見物客が随分と多かった。
中学時から平塚は全国区の男だし、将来性に富んだ高身長。更には国内では珍しいビッグサーバー。まあ確かに、気になるのも無理はないか。
見物客に交じり、平塚のプレイをぼんやりと見ていた。
いつかの練習試合、あの時の奴のプレイと今の奴のプレイを……気付けば脳内で重ねていた。
そして、思う。
サーブは当然だが、ストロークもフットワークも。以前に比べてかなり練達されてきているように見えるのだ。
『テニスがもっとうまくなりたい。そう思うなら、一分一秒が惜しいと思うのは当然だ』
先日の早朝、朝練に向かう平塚はそんなことを言っていた。
あれは……どうやら一切の偽りない言葉だったらしい、と俺は悟った。あの練習試合からの上達具合をマジマジと見せつけられると、そう思わざるも得なかった。
これは本当に……次こそ足元掬われるかもしれない。
ぼんやりと平塚の試合を見続けていた。
しかし、たったの1セットマッチ。試合はそのまま、平塚のワンサイドゲームで幕を下ろした。
「平塚君、勝ったの?」
まもなく、結衣がやって来た。マネージャー業も一区切りついたようだ。
「ああ、圧勝だな」
「そう。さすが」
「へえ、お前もあいつのこと、一目置いてたんだ」
てっきり、結衣は俺のテニスウェアにしか興味がない……テニス自体には興味がないと思っていた。
「当たり前じゃない。極上の匂いを醸すには、あんたのしているスポーツの本質を見抜かないといけない。それを知らずに、どう良い匂いを生むって言うのよ」
「わからん」
元天才少年言われすぎてて気疲れしていて、俺は結衣の冗談(?)にも碌な返事は出来なかった。
「とにかく、あたしはそう言う理由でテニスの神髄を掴まないといけない。テニスを見る目は結構養われている。その目で見て、平塚君の腕前は卓越しているってのも一目でわかる」
「ふうん」
「ほら、次は2番コートの新井君の試合を見に行きましょう。本戦に上がる確率が高い子よ」
「良いよ。次のこのコートの試合を見よう」
「駄目よ」
「えぇー」
「何のためにここに来たと思っているのよ」
「部活動の一環」
「いつも本戦以外では大会に顔も見せない癖に、どの口が言う」
「……お前にゃわからんさ」
見ず知らずの人に知られていて、罵倒、嘲笑される苦しみなんて、こいつにはわからんだろう。
「……良い?」
不貞腐れる俺に、結衣はズイッとふくれっ面を近づけた。
思わず、うおっと情けない声を上げて、俺は身をのけぞらせた。
「ここに来たのは、敵情視察のため。第3シードとは言え、誰があんたと本戦で試合するかはわからないでしょ。その時、情報不足で負けるだなんて勿体ないじゃない」
「……でも」
「いいから、行くよ。いつまでも不貞腐れるな」
「うわわっ」
結衣に強引に腕を引かれ、俺は引っ張られる形で第2コートまで歩かされそうになっていた。
本戦に迫る会場は、たくさんの学生でごった返していた。その中で結衣は自らの目的のため、人混みを掻き分け、先に進む。
人混みをものともしない。そんな勇敢な少女に手を引かれる自分はなんて情けないことか。
……こうして、たくさんの人に中傷され、そうして平塚という後輩の実力を間近で見て……俺はいつも通りナイーブになっていた。
こんなにナイーブになるくらいなら、もっと自信を持てるくらいに練習をしておけば良かった。ふとそんなことを思って……いつかの誰かの言葉を思い出した。
『テニスがもっとうまくなりたい。そう思うなら、一分一秒が惜しいと思うのは当然だ』
そいつは、常人ならば辛い、辞めたいと思うことを息をするように平気で出来る男だった。だからあいつは……一年にして、高校テニス界で頭角を現わそうとしているのだろう。
平塚だけじゃない。
今、俺の手を引くこの女も……結衣も。
自分の好きなことのためなら、全てを捧げられるようなそんな人だった。
そうでなきゃこいつは……いつか言っていた好きでもない俺のために、ご飯を用意したりテニス日誌を書いたり、マネージャー業に就いたり。そんな全てを捧げるようなこと、出来ないだろう。
こいつらのそう言うところが、好きと言うわけではない。
憧れているわけでもない。
ただ、思う。
こいつらには逆立ちしたって、俺は勝てっこないのだろうと。
辛いこと、辞めたいことを平気で続けられることは……多分、一種の才能だ。そしてその才能は、恐らく等しく平等である……人間である俺達にとって、優劣を決める重要な要素。
だから俺は、こいつらに勝てっこないのだとそう思ってしまう。
いいや違う。
思っているのではない。
俺は、知っているのだ。
そういう人種に、俺は叶いっこないってことを。勝てっこないってことを。
……かつて、一人の男にそれを教え込まれたから。
だから俺は、それを知っている。
「……あれ」
人混みをすり抜ける中、ひと際大きな背の男の横を横切った。
その時、男が発した声に……俺の気は一瞬で動転していた。
「おおい、アキラ君。……アキラ君!」
聞き馴染みのある声。
いいや、聞きたくないと忌避していた声。
避けていた声。
「ぐえっ」
結衣に掴まれていた腕とは逆の手を掴まれ、俺は両方から引っ張られて変な声を上げていた。
パッと両側から手を離されて、俺はその場で転倒した。
「……痛い」
「アハハ。ごめん」
謝る結衣。
「だ、大丈夫かい、アキラ君っ」
そして……。
「大丈夫じゃない」
「それは……ごめん」
「謝っても俺が痛かった事実は変わらない」
思わず、俺は憎まれ口を叩いていた。結衣には目も暮れず、こいつに。
周囲はいざこざしている俺達に野次馬根性を働かせているようだった。試合そっちのけで、俺達の方を見やっていた。
でも俺は、そんな野次馬の視線に怯むことはなかった。
だって俺は、こいつが心の底から嫌いだったから。
……この男は。
背が高くて。
俺との対戦成績が、俺の四勝三十四敗で。
「だって、折角久々にライバルと出会ったんだから……挨拶したいと思うじゃないか」
そうして、そんなに俺を負かしている癖に俺のことをいつまでも好敵手と言うそんな男。
……そして、幼少期天狗となっていた俺の鼻っ柱を折った、俺に初めて黒星を付けたそんな男でもある。
「とにかく……俺、お前のこと絶対許さねえからな。塩田君」
名を、塩田順平。
俺達の代では都内最強の男であり、全国でも一、二を現在進行形で争う……俺の宿敵。
そして、辛いことから逃げない人に俺が勝てるはずがないと、そう俺にトラウマを刻み込んだそんな憎き男だった。
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