約束
憎まれ口を叩いて、さっさと塩田君の元を去ろうと俺は立ち上がった。そして、結衣の方に近寄った。
さっきまで第二コートの試合に興味はなかったが……塩田君のせいで、今やすっかりその試合の事が俺は気になりだしていた。
しかし、今度は結衣が固まって、動かなかった。
「いいの?」
結衣が尋ねてきた。
「何が?」
「友達と久しぶりに会ったんでしょう?」
「別に、友達じゃない」
心の底から、塩田君が友達だなんて言われるのが嫌だった。
「そうだよ。僕達はライバルですよ。ねっ、アキラ君」
そして、助力してくれたのはまさかの塩田君。
俺は嫌な顔を作って……塩田君の方とゆっくりと向いた。
気付けば、随分とギャラリーの注目を集めていたが、大衆に恥ずべき姿を見られるより、今はこの男の言い分に文句があった。
「塩田君、俺達の対戦成績は俺の四勝。君の三十四勝だぞ? あんまり滅多なことを言うな。嫌味に聞こえる」
「嫌味だなんてとんでもない。ぼ、僕は心から君をライバルだと思っているからそう言っている!」
文句を言うと、塩田君は焦りながらそう言い返してきた。
だから、思わずため息が漏れた。
……この男は。
この、塩田君は、昔からそうだった。
出会いはいつ頃だったか。ただ覚えているのは……ジュニアの全国大会決勝。俺の全盛期だった頃の大舞台。
そこで俺は、これまで意識したこともなかった彼と戦い、無残に敗北したことだけだった。
あの頃の俺は、テニスを楽しみ、そしてその楽しいテニスで王者に君臨する。結果を残せている、ということで、とにかく天狗になっていた時期だった。
別に、だから誰かに嫌がらせをしただとか、図に乗っていたとか、そういうわけではない。
ただ、試合をすれば俺が勝つのは当然。そう思っていた。
その伸びた鼻っ柱を真っ二つにへし折ったのが、彼だった。
あれから彼と幾度となく試合をしたが……その結果は、このありさま。言ってしまえば、僕の今の負け犬根性を植え付けた張本人は、かの塩田君だった。
そんな全盛期の僕を貶めて……そして、今の僕を形成した彼のことを好きになれ、だなんて、その方が無理がある話なのだ。
「き、今日は敵情視察かい? 奇遇だね、僕もそうだ」
「君なんて、別に敵情視察になんて来なくても試合に勝てるだろう?」
いじけるように言うと、あうあう、と塩田君が戸惑っているのがわかった。大人気ないことをしているな、と自分でも思ったが、別に彼に好かれたいわけでもないから構わなかった。
「……と、とにかく。今回の都大会の決勝の舞台。また会おう」
これ以上僻んでいる俺と話すのは辛かったのか、場を纏めるように塩田君は言った。
そして、差し出された右手。握手をしたかったのかもしれない。
でも俺は、そんな彼の要望に応えることなく、踵を返して歩き出した。
「行くぞ」
そして、らしくもなく戸惑う結衣に言って、第二コートへと向かった。
「ちょっと、それはないんじゃない?」
背が高い塩田君が小さくなりつつなりつつあるタイミングで、隣を歩いていた結衣に言われた。怒っているような口調だった。
「うるさい」
しかし今ばかりは、そんな態度の彼女に苛立った。
この話は俺と塩田君の話。その話の部外者である結衣に、何も言われたくなかった。
そんな俺の意図を言外から察したのか、結衣はわかりやすいため息を吐いて隣を歩いていた。
第二コートに辿り着くと、俺はただ黙って試合を観戦していた。
相手の得意プレイだとか、そういう研究は目が滑ってまるで出来なかった。
頭の端に、ずっとモヤモヤが引っ掛かっていた。
それは、塩田君に対することだった。
さっきの言動が酷かったかも、とかそんなことを思ったわけではない。
ただ……どんな形であれ。
結衣に煽られているから仕方なく、という形であれ、ようやくテニスに対する熱が再燃しつつある今、このタイミングで……塩田君と会いたくなかった。
たくさん、あの男に負けてきた。
プライドも。
意地も。
信念も。
全てを、あの男にズタズタに打ち砕かれてきた。
俺が、塩田君をライバルだと言うのならまだわかる。
勝てない相手を目標に練習し、成長し、切磋琢磨していくのならまだわかる。
でも、塩田君が俺のことを好敵手と謳い、成長していくのなら……俺はもう、彼に勝てるはずないじゃないか。
俺なんて低いハードル、目標だなんて謳う必要ないじゃないか。
そんなの、死体蹴り以外の何者でもないじゃないか。
俺より強い癖に俺の立場を奪う奴と再会を果たして……俺は、気持ちが砕けそうだった。
だから今、あいつと会いたくなかったのだ。
「まーた僻んでる」
俺の気を勝手に悟った結衣に、呆れ声で言われた。
「……うるさい」
「別に良いけどね、あんたが僻もうが。あたしは、あたしの目的が果たせればそれでいい」
「お前は本当……ブレないな」
そんな結衣が、今は酷く羨ましかった。
「そこまで、塩田君に対して僻むってことはさ……。
あんた、塩田君に勝ちたいんでしょ?」
不意を突く問いかけだった。
塩田君に勝ちたいか。勝ちたくないか。
……たくさん、色んなものを打ち砕かれてきた。あの男に。
塩田君が嫌いだ。俺の全てを奪い、へし折ろうとするから。
そんなあの男に、勝ちたいのか。
……そんなの。
「当たり前だろ」
勝ちたい。
当然だ。
挑む以上、負けたいなんて思うはずがないじゃないか。
全てを奪われた以上、全てを取り返したいと、そう思うのは当たり前じゃないか。
勝ちたい。
あいつに。
塩田君に……。
でも今までも、そう思って俺は塩田君に敗北し続けた。勝ちたい、とそう思うのが、無駄だと思わされてきた。
「じゃあさ、約束してよ」
ただ、結衣は……。
「逃げないって、約束してよ」
そんな俺に、いつかも聞いたことを言った。
逃げるな。
強敵を前に、リスクを取らないテニスで勝てるはずがない。
だから、逃げるな。抗え。
結衣は、そう言っていた。
……でも。
抗っても、逃げなくても。
今の俺には。
たくさん。
何度も。
何度も何度も……。
……何度も。
塩田君に負け続けてきた俺には……逃げなくても、塩田君に勝てるビジョンが浮かんでこなかった。
約束の回答を、俺は口にすることは出来なかった。
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