ゾーン

 昨晩、結衣からの電話で色々と荒らされたせいで熟睡することが出来なかった。いつもより早く目を覚まして、真っ先に体の状態が気になった。昨日、あれほどの死闘を繰り広げて、試合終盤には右足に痙攣まで起こして、筋肉痛は免れないと思っていた。


「おお、おおおっ」


 ベッドから体を起こして、思わず唸り声をあげてしまった。

 筋肉痛は免れないと、昨日寝る前あれほど思ったのに……全然、痛くない。


 これも入念なストレッチ、そしてどっかの誰かの指示によってした半身浴のおかげなのだろう。


 ありがてえありがてえと思いながら、俺は手短に朝練に向かう準備を始めて、まもなく家を出た。

 

「あ、おはよう」


 玄関から飛び出すと、結衣がいた。手にはスマホを持っていた。


「電話しようと思ったんだけど、ちゃんといつも通りの時間に起きれたんだ」


「いや、いつもよりちょっと早いから」


「え、じゃあ朝の準備いつも今より短いの? 駄目だよ、寝起きで気だるいのはわかるけど、事前準備は重要よ。匂いのためにも」


「はい」


 途中までとても納得する話をしてくれたのに、最後の最後にオチを付けるな、芸人かこいつは。


「はい、朝ごはん」


「ありがとう」


 あの日以来いつも作ってくれている結衣のおにぎりを受け取った。それを食べるのは、いつも電車の中と決まっていた。


「ほら、行くよ」


「うん」


 いつも通りの朝だった。

 朝、こいつと一緒に学校に行って。こいつからもらったおにぎりを食べて。感想を伝えて、そんな朝。

 すっかりと何かを忘れているような気がするが、はて……?


 とにかく、そんな調子で学校へ行き、俺達は誰よりも早く朝練を始めた。いつもならもういる平塚も、今日はまだ姿を現さなかった。昨日あれだけの死闘をしたのだから、あいつも疲労が溜まっているのだろう。


「うぅむ……?」


 そんな宿敵がいないテニスコートで、俺は一人胡坐を掻いて唸っていた。


 腕を組み、天を仰ぎ。

 疑問の考察に、耽っていた。


「何やってるの」


 倉庫整理を終えた結衣がやって来た。


「……うん、なんかおかしい」


「おかしい?」


 そう言って、結衣は俺に顔を近づけた。

 いつかはそれだけで赤面をしたものだが、今ならもうそんなことはしない。


 ……だって。




「くんかくんか」




 はいはいはい。

 いつものやついつものやつ。


 こいつの性癖にいつまでも赤面するだなんて、そんなの格好が付かないだろう。


「……いつも通りだけど?」


「そりゃどうも」


 こいつに匂いを嗅がれ、いつも通りと言われるのがおかしいことだと、感覚がマヒしてすぐには気付けなかった。


「いや、そうじゃないんだよ」


 そう言って、俺は立ち上がった。


「まずは、サーブだ」


 そして、サーブを数本打った。

 俺が気になったこと。それは昨日の試合ではあれほどコーナー一杯にサーブを打てたのに、今日は中々際どいコースにサーブが決まらないことだった。

 際どいところを狙おうとすればするほど、サーブは何故かネットに引っ掛かった。


「次に、コードボール」


 昨日は、あれほどコードボールを決められたのに。


 今日は、全てがネットに引っ掛かった。


「昨日は出来たんだ。どうして今日は出来ない?」


 おかしいなあ、おかしいなあ。

  

 俺は再び、天を仰いだ。


 悩む俺を他所に、


「あんた、馬鹿?」


 結衣は、呆れていた。


 ……今更ながら、この変態に呆れられるのは少し癪だな。


「試合中、あれほど緊迫していた場面でさ。あんたも相当の緊張感を持ってプレイしてたんでしょ。だから、それだけあんた集中してたの」


「ふむ」


 確かにあの時は……時折、結衣以外の顔が見えなくなったりもしたし、いつにもまして集中していた気もする。




「ゾーンってやつね」




「ゾーン?」


 わざわざ横文字で言うだなんて、そんな滅多な言葉なのだろうか?


「プロアスリートがさ、試合中とかに凄まじい集中力を見せる時、その時にいつにもまして感覚が研ぎ澄まされてプレイのキレが上がるって話だよ」


「ほへー」


 俺、そんな極限の状態に差し掛かっていたのか。

 まあ、言われてみれば確かに、あれほど自分の体が俺の言う通りに動いてくれたこと、これまでにあっただろうか。


「それだけ昨日のあんたは試合に集中してたってことね」


 うんうん、と得意げに頷いたのは結衣だった。


「……なあ、質問」


「何かね、アキラ君」


「もう一度その状態に入るには、どうしたらいい?」


 と質問して、この問いに結衣は答えるのは難しいと思わされた。だって、こいつプロアスリートでもなんでもないし。


「良い質問ね」


「……え」


 が、結衣は何やら答えを導こうとしているようだった。


「あんたが一番集中力を見せられる状況はどんな時? 結局さ、その時を再現するようにすればいいのよ。そうしたら、また入れるんじゃないかな、ゾーンに」


「……なるほど」


 確かに、あの時の状況を再現すれば……あの時と同じように集中出来る場面を作れれば、再び入れるかもしれない。ゾーンに。


 ……納得はしたが、少し癪な部分がある。


「お前、受け売りの言葉でよくそこまで得意げに話せるな」


 そもそも、アスリートでもなんでもない結衣が、その話を誰かから聞いたことは必然。その割に、まるで自分がしたことがあるように語るもんだから、思わず俺は呆れて目を細めていた。




「失礼ね、あたししょっちゅうゾーンに入ってるわよ」




「えっ、マジでっ!?」


 す、すげえ……。

 今度からこいつのこと、結衣先生と呼ぼうか?




 ……いや待てよ?




 なんだか、落とし穴がある気がするんだけど。


「……おい」


「ん?」


「お前、どんな時にゾーンに入るんだよ」




「テニスウェアを抱きしめている時」




「聞いて損した」


 俺は練習に戻った。

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