エリートクンカー

 居た堪れない気持ちだった。いや、そんな気持ちを抱くのは今に始まったことではない。

 この部屋に入ってから、俺の気持ちが晴れた試しは一度もない。


 それは、はっきりしない自分の性格。それも一因にあるだろう。それで自己嫌悪に陥っている部分も確かにある。

 でも一番は……この変態の一挙手一投足。今、俺はそれに怯えていた。

 性的欲求の捌け口にされないか。あの、俺が身に纏っていたテニスウェアのように。


 また、正論を吐いて罪悪感を駆り立ててこないだろうか。いつものように。


 優衣は、


「ま、良いんだけどさ」


 俺のテニス継続の判断を興味なさげに、肩を竦めてあっけらかんとしていた。


「……テニス、続けるんだ」


 そして、確認するように尋ねてきた。

 返事の句は、中々出てこなかった。ここでもまた、俺ははっきり出来なかったのだ。


 迷っていた。

 まだ、テニスを続けるべきか否か。


 自信を打ち砕かれ、プライドもズタズタにされ、元天才少年などと憐れみの視線を浴びせられて。


 テニスを続けた時、またやって来るそんな展望に、俺の身は竦んでいたのだ。

 結衣は、俯く俺を凝視していた。恐らく、俺が考えているようなことは見抜かれていたのだろう。


「あーあ、遂にバレちゃったか。まあしょうがないよね」


 しかし、結衣が俺の内心に触れることはなかった。人間的に興味がない人のことなど、彼女は多分どうでも良いのだろう。


「……開き直るなよ」


「開き直ってなんかいない」


「……まあ確かに、バレるのも時間の問題のような趣味であることは認めるけどさ」


 思えば、自分の情事を他人、それも異性に見られるってかなり恥ずかしいよな。こいつ、なんでこんなに平然としているのだろう。

 匂いの嗅ぎすぎで頭のネジが吹っ飛んでいってしまったのだろうか。少しだけ心配だった。


「バレるのも時間の問題?」


 しかし、結衣はそんな俺の気など意にも介さず、俺の言葉に鼻で笑って返してきた。


「あたしがあんたのテニスウェアを拝借するようになったのは、六年くらい前からだけど」


「六年!?」


 すごい年季の入ったご趣味ですこと。そんなことされているのに、全く気付いていなかった。年を重ねていくごとに、テニスにかける時間も増えてこいつとは隣同士に住んでいながら、疎遠になりつつあった部分も影響しているのだろう。


 ただ、それにしても六年とは。


「つうかそれ、小学校の頃からお前、そんなことしてたの?」


「悪い?」


「なんで悪くないと思ってるの?」


 長年そんなことをされていたなんて、素直にドン引きです……。

 

 結衣は、まるで自分は何も悪いと思っていないと言う風にしかめっ面をしていた。


「ま、それはもういいじゃない」


「また開き直ってる」


 こいつのこと、真面目な人って思ってたのに、一夜にしてそんな考えはどっかにすっ飛んで行ってしまったようだ。


「まあ、あたしのこの趣味がバレたのも何かの縁よね」

 

 それもまた、なんだか開き直りの発言のように感じるのは、こいつへの俺の印象が崩され、わからなくなっているからなのかもしれない。


 結衣は、そんな発言の後、微笑んだ。まるで、妙案……面倒事が浮かんできてしまったように見えた。


「良いこと思い付いた」


「先に言うけど、俺は協力しないぞ?」


「まだ何も言ってないじゃないっ」


 プリプリ怒る結衣に、不意に可愛いと思ってしまった。この女は、容姿的な要素はかなり整っているから質が悪い。しかし、顔の可愛さに釣られていたらまた知らぬ内に身の毛がよだつ所業をされそうだ。覚悟してこいつの話に望まなければ。


「……別に、あんたに悪い話じゃないわよ」


「本当だろうな?」


 酷く不安だ。


「本当だって」


 結衣は疑り深い俺に目を細めて、続けた。


「……正直さ、これまでは匂いの発生源であるあんたと談合出来ていなかったから、匂いの精度はあんたのやる気に左右されるところがあったのよね」


「言い方」


「でも、こうして晴れてあなたとあたしは秘密を共有出来た」


「なんだかエロティック」


「それでいて、あんたはテニスをまだ続けようとしている。もっと上達したいとそう思っている」


「……それは、まあ」


 続けるか否か、未だ悩んでいる状態ではあるが……続けるのであれば、その大義名分は正しい。


「それで浮かんだ妙案よ」


 ない胸を張るこの女を、俺は酷く滑稽だと思った。


 何を考えているか見抜かれていたのか、呆れたような顔で見ていたことが原因なのか。

 結衣は俺の頭をぶった。少し痛かった。


 わざとらしい咳ばらいをして、




「協力関係を結びましょう」




 結衣は、また訳の分からないことを言い出した。


「協力って……具体的にはどんな」


「あたしは、あんたのテニスの練習メニューをコーチと相談して取り決める。練習をサボらないように付きっ切りで監視してあげる」


「ふむふむ」


「あんたは、たくさん練習してたくさん汗を掻いて、汗が染み込んだテニスウェアをあたしに上納する」


「ほう」


「あんたはテニスが更に上手くなる。あたしはあんたの高純度のテニスウェアが手に入る」


 興奮冷めやらぬ様子で、結衣は続けた。


「これぞ協力関係! これぞ、幼馴染の友情!」


「ほほう」


「どう? 素晴らしいでしょ?」


 どう、か。

 結衣の言った協力関係の話を、俺はゆっくりと咀嚼した。


 ……まるで新興宗教の勧誘のように意気揚々とお話ししてくれた結衣の提案。


 その内容をかみ砕いて、思ったこと。




「え、何それ鬼?」




 それ、協力関係とは名ばかりだよね。

 俺一方的に損している気がするんだけど。不平等条約かな?


「何よ、気に入らないの?」


「はい」


 即答だった。


「……むぐぐ」


 歯ぎしりする結衣の必死さに、俺は再び引いていた。


「じゃ、じゃあ! お弁当作ってあげる!」


「お弁当?」


「お昼の。あんたいつも惣菜パンしか食べてないでしょ」


「おお、良くご存じで」


「加奈から教えてもらっているから。……で、スポーツを上達させるにあたって、体の資本である弁当を手抜きするなんてそんなの駄目! だから、お弁当作ってあげる」


 ……そもそもだ。

 大前提として、こいつと縁切り出来ないことはないのだろうか?


 だって正直、好いてもいない女に自分の汗が染みた……体臭が付いた衣類を性的欲求に使用されているって、非常に辛いものがあるんだが。

 それを止めて欲しいという話がまず一番。でも、話を聞くと小学校の頃からそんなことに手を染めているこの女が、今更その道から足を洗えることはないだろう。


 であれば、手遅れなこの女の前から去りたい。それが本音だ。


 ……何とか出来ないものだろうか。


 ……でも、この俺の体臭に対する狂信者ぶりを見ると、その道も簡単ではないよなあ。夜逃げでもしようものなら、一生追いかけ回されそうだし、使用済みテニスウェアの供給をストップしたら……それこそ、刃傷沙汰に発展するのではないだろうか。


 うわあ、ナイフ持ったこの女に刺される自分の姿が脳裏に簡単に浮かぶよ……。


 無理だー。さすがに俺、まだ死にたくない。


 ……と、なると。


「わかった」


 そもそも、ここで否定的な態度を取るのもリスク。乗るしかないじゃん。この条約に。


 パーッと、結衣の顔が明るくなった。

 性的趣味以外は、まともで等身大で可愛い女なんだがなあ。


 あまりにもその一点が強烈すぎる。


「じゃあ、明日から早速お弁当作ってくから!」


 意気揚々と、ぴょんぴょん跳ねながら結衣は言った。


「あー、はいはい」


 ……ただまあ、いつも厳しく接しられてきたこの女の、こんな無邪気な顔を見れる日が来るだなんて。

 これも、悪くない光景だな。




「発汗作用がある料理、たくさん作るねっ!」




 ……ん?

 発汗作用……?


 も、もしかして……弁当作ることさえ、こいつの既定路線だった?




「うわあ……」




 相容れない趣味にかける並々ならぬこの女の想いに、俺は再びドン引きだった。

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