コヒュー

 コヒュー。コヒュー。


 足は生まれたての小鹿のように。

 肺は、まるでナイフで内側から刻まれたように。


「うわっ、奥村が倒れてる!」


 ようやく、朝練の時間がやって来た。

 にも関わらず、俺はコートにうつ伏せで倒れたまま、立ち上がることが出来なかった。


 最初は、ただの対抗心だった。


 テニスウェア命の馬鹿な幼馴染の挑発に乗って、あいつが提案する練習、もといハードワークに付き合った。ただ、それだけだった。

 今になって思えば、あいつはわかっていたのだ。


 挑発すれば、煽り耐性がない俺が乗っかってくることを。


 その奴の策略に俺はまんまと乗せられたのだ。

 そしてその様が……これだった。


 これが、超高負荷トレーニングか……。中々効くじゃねえか。


 まあその言葉、あいつが練習前に教えてくれたから知っているだけで、内容はまるで何も知らないんけどね。


 朝練にやって来た部員が増える度、喧騒とした声が広がっていく。

 まるで、テニスコートに病人でもいるような、そんな慌ただしさだった。うつ伏せで倒れている限り、そんな病人はどこにもいなさそうだけどって俺かー。




「退いてっ」




 指一本動かない体……は動かなかったが、耳がぴくっと反応した。

 この声は、間違いない。


 あの、変態幼馴染だ。


 あの変態は、俺がパタンと倒れた時に保健室に行って先生呼んでくるから、と俺に声をかけていた。

 しかしその時の声は、今のように慌ただしい様子はまるでなかった。


 信仰すべきテニスウェアを侮蔑した男への復讐をやり遂げたことの高揚感。充足感。そして、歓喜。


 何に対する歓喜って……?


 そんなの、汗だくで倒れている俺を見たらわかるだろ?


「橘、奥村の奴どうしたんだ?」


「え?」


 素っ頓狂な声で、奴は大和先輩の言葉に反応した。


 俺……奥村の奴は、今あなたの目の前にいる女の安い挑発に乗ってハードワークでダウンしたんですよー。


 素直に言えよな、この野郎。


「さあ?」


 声を裏返しながら、乾いた笑みで誤魔化すように奴は言った。


 ……嘘つきやがった。お前のせいだろ、お前の。


 と、思って、ふと気付く。




 そもそも安い挑発に乗った俺も悪いのでは?




「あたしが来た時には倒れてましたよぉ?」


 ……ふむ。


「多分、昨日平塚君に勝てたこと、相当嬉しかったんじゃないでしょうか?」


 まあ、これはあれだ。


 今日は、俺の羞恥のためにもこの場はそれで収めてやるよ。

 何に俺が羞恥を感じているのかって?


 そりゃあ勿論、この変態幼馴染の安い挑発に乗り、たった一時間弱でダウンに追い込まれたことだ。小さい頃からテニスをやって来て、体力不足を感じたことなど一度もなかった。

 なのに、俺はあっさりこの女が指示した練習で音を上げたのだ。


 それが恥ずかしくないわけないだろう。


「おー、まあこいつ、最近ずっと深刻そうな顔してたもんなー」


「そっか。こいつも人並みなとこあんじゃん。俺もっとつまんない奴だと思ってたよ」


 オーバーワークで倒れる奴は人並みじゃねえ。

 ていうか、俺はつまらない奴だと思われてたの?


 ……否定出来ないから泣けてくる。


 どっちにせよ、羞恥と疲労感に悶えながら、俺は先生により担架に乗せられ、保健室に直行させられることになった。


 仰向けに担架に乗せられぐったりしていると、同伴してくれるらしいあの幼馴染の顔が横目に見えた。




 結衣は、さすがに仕出かしたことの重大さに気付いたのか落ち込んでいるように見えた。


 そんなあいつに、いい気味だと思う気持ちは湧いてこなかった。実害を被っているもので。




 ……しかし、あれだ。




 汗だくのテニスウェア。

 指一本動かせない危篤な状態。


 そして、傍にいる俺のテニスウェアを崇めるテニスウェア教信者。いいや、凶信者。



 なんだか調子が狂うなあ。


 本来ならこんな場面、いつ俺のテニスウェアがこいつに剥ぎ取られるかと戦々恐々としそうものなのに。

 そんなに委縮されるとこちらが悪いことをした気になってくるじゃないか。


 そんなことを考えていると、こちらを見た結衣と視線がかち合った。


 結衣は、一瞬逡巡したように俺から目を離した。しかし、何かを言わないといけないとそう思ったのか、再び俺を見た。




「……ごめん」




 何に対する謝罪なのか。

 そう問いかける元気は、俺にはなかった。


 ただ意外だった。


 こいつ、物事の良し悪しを判断出来る奴だったのか。

 いやまあ、良識ある奴だってことは知っている。知っているけど……俺のテニスウェア以外に対しては、という文言が付く良識ある奴なのだ。


 それなのに、まさか。


 俺のテニスウェアに目も暮れることなく、謝罪してくる良識があったなんて。


「……別に」


 掠れる声で、俺は言った。

 そして、心の底で謝罪した。




 今度から、気安く俺のテニスウェア様のことを罵倒したりしません。

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