お礼と謝礼と決勝戦

 審判のコールが、会場に響く。


「ゲームセットアンドマッチ奥村。2セットトゥ1。4-6。7-5。7-6」


 ……テンポの速いライジングで左右に振ったことが、最後は功を奏した。

 オムニのコートに足を取られながら、塩田君はなんとか強烈なパッシングを放ち、俺は打ち上げさせられたが……そのコートに足を取られせいで、塩田君はボールの落下地点に入り込むのが少し遅れた。


 それが、スマッシュのミスショットを偶発した。


 そんな、たまたまな勝利。

 偶然。


 ほんの偶然の……ラッキー勝利。




 ……なのに。


「はぁぁぁぁ……」


 俺は、コートに仰向けに倒れこんだ。

 この後、まだ決勝戦があるって言うのに……もう、足がガクブル。


 ……全てを出し切った。

 そして、出し切って……勝てた。




 勝てたんだ。




 ここまでの勝敗は、俺の三勝。三十四敗。

 俺が腐って一時はテニスを辞めようって……そう思わせた、宿敵でありトラウマ。


 もう、勝てないと思った相手に……勝てたんだ。




「やあ、僕の好敵手」




 仰向けに倒れる俺に近づいて来たのは、件の塩田君。


 爽やかな笑顔で、塩田君は俺に右手を差しだしてきた。


 掴め、と奴の微笑みの顔は言っていた。

 その手を掴むのが、少し癪だと思った。


「敗者の顔に泥を塗る気かい?」


 そう言われると、この男に何度も負けてきた身としては……その手を掴まざるを得なかった。


 起こしてもらった後は、すぐに手を離した。


「もう満足だろ?」


 そう言うと、塩田君は少し残念そうな顔をした。


「楽しかった」


 しかし、すぐに塩田君は気を取り直して言った。


「君はどうだった?」


 そして、尋ねてきた。


 この男とのこの試合。

 楽しかったのか、どうなのか。




 ……そんなの、聞かれるまでもない。


 今まで負けっぱなしだった塩田君に勝てた。

 全てを出し尽くして、勝てた。




「楽しかったよ、凄く」




 これほどの幸福感も。

 これほどの達成感も。


 これまで、一度だって味わったことがあっただろうか。


 でも。

 そんな幸福感も。

 そんな達成感も。


 たった一人では成し得なかった気持ち。


 だってテニスは、一人では出来ないのだから。


「ありがとう、塩田君」


 気付けば俺は……忌み嫌う彼に握手を求めていた。




 いつか拒んだ握手を……求めていた。




 死闘を繰り広げてくれた塩田君の右手は、固かった。王者で居続けるための日々の鍛錬の証が、その手にはあった。


「また、闘おう」


「その時は、僕が勝つよ」


 そう微笑み、塩田君は手を離して……ベンチへと戻っていった。




「だって僕は、まだ君に勝ったことがないのだから」




 背中を向けた塩田君が何かを言った気がしたが、その声が俺の耳に届くことはなかった。




 荷物を纏めて、コートを出た。

 試合を見ていたギャラリーは、俺の勝利を嬉しそうに祝福してくれた。


 でも俺は、その皆に苦笑を作ってその場を後にすることしか出来なかった。


 元々、コミュニケーション能力が高くないのも一つの理由。

 疲れたから、決勝までに少しでも体力を回復させたいと思ったことも一つの理由。


 そして……。


「ふぅぅぅ……」


 昂る今の気持ちを、抑えたかったのが……最大の理由。


 勝った。

 あの塩田君に……勝った。


 勝ったんだ。


「よっし」


 小さく、さっきまでいた用具の詰まった倉庫の前で一人ガッツポーズをした。

 

 口角が吊り上がりそうになっていた。

 この場で小躍りして、足を攣りたい気分だった。


 それくらい、嬉しかった。


 ずっと勝てなかった相手に……三十七回戦って、三回しか勝てなかった相手に、やっと勝てたのだから。


「落ち着け……。落ち着け……」


 でも、まだ喜ぶ時ではない。

 まだ決勝もある。


 それに、所詮塩田君との勝敗を四勝三十四敗に出来ただけ。


 それだけじゃないか。




 ……だから、落ち着け。




 そう努めた。




「お疲れ」




「うわあああああっ」


 そんな時訪れた来訪者は……いつも間が悪い変態だった。


 悲鳴を上げた俺に、結衣は怪訝な顔をしていた。


「何、突然大きな声を上げて」


 いつにもまして、結衣の声は冷たかった。


「あ、もしかしていかがわしいことしようとしてたんでしょ。止めてよ、こんなところで」


「誰がこんな公共の場でするかっ」


 思わず、突っ込んでいた。

 ……と言うか、断罪するように言っているけど、それ君の専売特許だよね?

 こいつ、自分のこと棚に上げやがって。

 今までの文句、この場で全部言ってやろうか?




 ……と思って、俺は留まった。




 ゆっくりと俺は、試合終わりに重い腰を上げた。


「……何?」


 突然立ち上がった俺に、結衣の瞳が心配そうに揺れた。


 そんな結衣を前に……。




「ちょっ」




 俺は、テニスウェアを脱いで渡した。


「ん」


 結衣は、あっけらかんとしていた。今の状況を飲みこめていないようだった。


「……えぇと」


 ……え。

 なんで戸惑った様子なのだろう。


 いつもなら、さっさと受け取ってその場で味見(嗅見?)するのに。


「……勘違いするなよ、これはその……ただの、謝礼」


 これでは俺が変態みたいではないか。

 そう思って、言い訳がましく俺は言葉を並べた。


「謝礼?」


「そう。それだ……」


 そうだ、これはただの謝礼。

 何の?

 そんなの、決まってる。




「お前のおかげで、もう勝てないと思った塩田君に勝てたんだ。だから、それの謝礼」




「……違うよ」


 一瞬、驚いたように目を丸くした後、結衣は項垂れるように俯いた。

 何か思うことでもあるのか?


「塩田君に負けないように練習頑張ったのも、試合を頑張ったのも。全部、アキラでしょ?」


 ……ははあ。

 そんなこと、か。


「でもお前は言った。俺に……逃げるなって……」


 あの時の俺は、試合に向かう前から既に負けていた。

 でもそんな俺に必勝法を……勝ち目があることを教えてくれたのは、結衣だった。


 ……そして、言ってくれたのだ。




「がんばれって、言ってくれただろ?」




 あの言葉があったから、俺は勝てた。

 あの言葉がなかったら……俺はまた繰り返していた。


 だから、俺は……、


「ありがとう」


 結衣に頭を下げた。




 ようやく。

 あの変態クンカーは……ようやく。




 俺のテニスウェアを、受け取った。




「決勝は、何着るの?」


「ぬかりねえ」


 そうして俺は、ラケットバッグから二着目のテニスウェアを取り出し、ドヤ顔を見せた。


「……アハハ、そっか。そっか」


 結衣は、なんだか感慨深げに優しく微笑んだ。




 ……そして。




「じゃあこれは、ジップロックで大切に保管しておくねっ!!!」




「……ん?」




 突然、小躍りを始めた。


 ん?

 ……んんん?


 あれ、さっきまでの傷心げな態度はどこ行った?


 そもそも何に傷心げだったのかもわからないし、ジャージのポケットから当然のように封付きのジップロックを取り出し、愛でるようにそれに頬ずりするのもわけわかめ。


「いやー、この後決勝もあるし今日は二着かー。二着のテニスウェアに囲まれるのかー。いつもはテニスウェアを抱きしめてるんだけど、今日は抱きしめてもらおうかなー? いいよね、いいよね!!?」


「あ、はい」


 ……なんだか言い訳がましく言葉を並べて無理やりテニスウェアを渡したことに後悔を感じる。


 ま、いいか。


 こいつのおかげで試合に勝てた。

 こいつのおかげで、一つトラウマを解消出来た。


 こいつに感謝している気持ちは、本物なのだから。


 これくらいは、まあ……ギリ、許容内。



「……そう言えば」



 テニスウェア入りジップロックを持ち上げてクルクル回る結衣に悪いと思ったが、俺は声をかけることにした。

 気になっていることがあったのだ。



「決勝の相手って、誰?」



「……ああ」


 回るのを止めて、だらしらなかった顔を戻して、結衣は続けた。




「平塚君」




「えっ」




 あいつ……そこまで……?


「今日、あんたのサーブの調子も良いけど……平塚君のサーブも相当だね。1stサーブの成功率も高くて、サービスエース取りまくり」


「……トーナメントで調子よいビックサーバーが番狂わせ起こすのって、結構ありがちだよな」


 番狂わせ、と言って……その後俺は、少し発言を訂正したい気持ちに駆られた。

 あいつは別に、サーブだけが武器の選手ではない。


 先日練習試合して劣勢に追い込まれておいて、その言い草はあまりにも都合が良かった。


 ただ、なるほど……サーブの調子が、良いか。


「相手にとって不足なし」


 であれば、今から決勝が待ち遠しい。


「……あんた、少し変わったね」


 そんな俺を見て、結衣は再び傷心げに言った。


「どこが?」




「……昔に戻ったって感じ、かな?」




 結衣の発言を咀嚼しようとして、イマイチ飲み込めず……俺は首を傾げていた。


「まあ、とにかく頑張って。応援してるよ」


「アハハ。お前が興味あるのは、テニスウェアのことだけだろ?」


 結衣の反応は中々返ってこなかった。


 そんな彼女の様子に少し違和感を覚えつつ、まもなく、俺は決勝の舞台へと向かった。

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