嗅ぐ専

 半べそを掻くのも程ほどにして、俺はようやく次の大会へ向けた居残り練習を結衣と開始させようと思うのだった。

 しかし、早速問題点を見つけることになるのだった。

 問題点の内容。それは、いつもの基礎練習と違い、セットプレイという一人では出来ない練習であることが原因となっていた。


「早速だけど、球出ししてくれよ」


 結衣に、俺はそう提案をした。

 球出し。ラケットで向こうのコートからボールを打ってもらうか、もしくは投げてもらうか。そこは結衣に任せようと思った。


 ここで問題が起きた。

 いつもなら俺が練習をするのならなんでも協力的な結衣が、どうにもバツの悪そうな顔をしているのだ。


「どうした?」


 中々動かない結衣に、俺は首を傾げた。


「……もしかして、調子が悪いとか?」


 思わず結衣の身の心配をしたが、そう言えばさっきまで元気に俺を走らせていたこいつが不調なはずがないと思い至った。

 であれば、何故?


「あたし、テニス出来ないんだけど」


 ……なるほど。

 確かに、セットプレイを練習するなら本来はラリーを続けるのが一番手っ取り早い。だから出来れば結衣とラリーを続けることが出来るならそれに越したことはなかった。


 しかしまあ、出来ないかもとは正直思っていたからそこまで驚かなかった。


「じゃあ、球出しだけでもしてくれよ」


 そうして、初撃の練習だけでも。それ以外は壁打ち相手でも。そう思った。


 しかし、結衣は中々浮かんだ顔を見せなかった。


「あたし、テニスは嗅ぐ専なんだけど……」


 バツが悪そうに結衣が言う。


 見る専。やる専は聞いたことがあったが、嗅ぐ専は初めて聞いた。

 しかしこの女にあまりにぴったりな言い回し過ぎて、それを突っ込むことは憚られた。


「投げるだけでもいいよ」


「……投げるだけ?」


「うん。投げるだけ」


 投げるだけ、なのに……。


 どうして結衣は、未だ浮かばれない顔をしているのか。


 黙って、結衣は渋々ボールの詰まったかごを持って向こうのコートに歩いて行った。いつもなら練習のことになると、あいつはいつも楽しそうだった。ウキウキとも言えた。それは俺をイジメ抜けること、ひいては好みの香りを作れること、が理由なわけだ。

 これからするこの練習も、いつものそれと何ら変わらない。いつもの練習のように……俺に汗を。香りを、掻かせる練習だ。


 なのに、どうしてあいつはここまで乗り気ではないのか。


 もしかして、俺に汗を掻かせるのはいざ知らず。自分が汗を掻くのは嫌なのかもしれない、と一瞬思ったが、そんなはずはない。


 テニスウェアのため、あいつは誰よりも努力を惜しまない人なのだ。


 ストレスが匂いにとって不純物だとわかれば、俺からストレスを排除するように取り計らうし。

 朝ごはんが匂いにとって不純物だと思えば、わざわざ俺に朝食を振舞うように取り計らうし。

 嫌いな俺のやる気が匂いにとって必要だと理解すれば、俺を適度に煽り手を抜かせないように取り計らうのだ。


 そんなあいつが、俺のため、引いてはテニスウェアのために手を抜くだなんてあり得ない。テニスウェアのために、あいつが血と汗と涙を惜しまないだなんて、そんなことあるはずがないのだ。

 

 であれば……どうして。


「行くよー」


 パッと思い付いた理由は、一つ。


 サービスラインの手前に辿り着いた結衣がカゴを置き、ボールを一つ手に取って、こちらに振って見せた。


 考えに耽ることを一度やめて、俺はラケットを構えた。




 結衣が、振りかぶる。


「えいっ」


 女の子投げから放られたボールは……。




「えっ」




 こちらのコートに届くことなく、ネット手前でコロコロと転がる。


「アハハ」


 結衣は、苦笑していた。あいつらしくもなく、恥ずかしさを取り繕うように早口で捲し立てるように続けた。


「いやあ、ボール投げるの難しいなあ。アハハハハ」


 ボールを投げた……?

 俺にはボールを転がしたようにしか見えなかったんだけど……。


「ごめんごめん。もう一球だよね。行くよー」


 ……今のは。


 何かの、勘違いだろう。

 手が滑っただとか。ボールがすっぽ抜けただとか。


 そんなことに違いない。


 結衣は、次なるボールを放った。




 ……まさか。




 コロコロとネット手前で転がるボールを見て、いつもなら文句の一つでもつけるような場面なのにその言葉が出てこなかった。


 あいつと遊ばなくなったのはいつ頃だっただろうか。

 小さい頃は、いつもあいつにコテンパンにされてきた。鬼ごっこをすればいつも俺が鬼。かくれんぼをすればいつも俺が鬼。


 ……思えば、小さい頃あいつとした遊びはいつだって球技ではなかった。




「もしかしてお前、球技が……?」


 俺が抱いた感情は、呆れでも、怒りでもなかった。


 こいつが俺のテニスウェアにご執心だと知った時も。

 こいつが私益のために色んなことをないがしろにしていると知った時も。


 こんな感情は、抱いたことはなかった。




「そんな哀れみの視線であたしを見ないでっ!!!」




 珍しく、結衣が顔を真っ赤にして恥ずかしそうに叫んでいた。


「……ごめんな」


「だから……ああもうっ」


 怒りに俺に向けてボールを放るも、ボールはやはりネットを超えない。


 俺は自分の練習を忘れて、結衣のいるコートへと歩を進めた。

 そんな俺の様子に、怪訝な瞳の結衣。


「まずは、ボール投げるところから始めよう? な?」


 俺は結衣の隣に辿り着くと、慈悲を込めた瞳で言った。


「為せば成る!」


 パチンと優しく頬を叩かれた。

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