(目的のためなら)献身的なヒロイン

 誰かのせいで午前中はずっと体が重かったが……何とか、午後からは普通授業に参加出来るまでに体力は快復していた。午後からは真面目に授業を受けて、それでもいつも通りとはいかず、数度転寝を掻きそうになりながら、何とか授業を受け終えて、放課後の部活には重い体を押して強引に参加したのだった。

 本当は帰ろうと思ったのだが、


『アキラ君? どこ行くのかな?』


 ショートホームルームが終わる前には部屋の外で待機していた笑顔の結衣に、俺は強制連行されたのだった。

 結衣はその後、朝練の俺の死に体を見ていつにもなく心配げな部員達を制して、俺を部活に参加させた。

 その日ばかりは、いつものメニューでされ体に堪えた。膝はすぐに笑ってくるし、息もゼエゼエと苦しかった。


『何よ、もう諦めるの?』


 そんな状態でも諦めなかったのは、どっかの誰かが心が折れそうなタイミングで俺を煽って来たから。


『まーた逃げるんだ。懲りないなあ』


 なんですとぉ?

 額に青筋立てながら、俺は歯ぎしりを立てて必死に練習に食らいついた。当時は怒りのあまり我を忘れてしまっていたが……今思うと、相当ガキみたいなことをしていたな、と思う有様だ。


 何とか、部活動も耐え忍び、ようやく完全下校時間。


『どこ行くの?』


『げ』


 あの煽り屋に見つかると、碌なことにならない。

 そう思って、そそくさと荷物を纏めて帰ろうとすると……部室から出たところで再び奴と出くわした。


 ちなみに、開いていた扉の中にいた他着替え中部員からもげ、と声が飛んだのはご愛敬。


 煽り煽られ振り振られ。

 そんな調子で、極上な匂いを探求するかの女に、俺はひたすら練習を指示された。


 ヒィヒィと息を荒らしながら、死に体で練習をする俺に……帰る部員達は若干引いていた。


『おい、橘?』


 助け船を出してくれたのは、大和先輩。


『あいつ、さっき倒れた身だし……過度な練習は禁物じゃないか? 注意してやってくれないか?』


 なんだか自発的にオーバーワークしているみたいになっている……。こいつに煽られて乗せられただけなんだけど。

 そんな文句を抱いていると、


『でも、アキラももっとうまくなりたいと思っているみたいだし』


 まるで健気なヒロインを演じているかの如く、結衣は言った。

 大和先輩も、そんな結衣の態度に心が折れたようだった。あまり無理はさせるなよ、とだけ結衣に言って、そもそもなんで結衣が一緒になって残ることには疑問を抱かないんだよ、と思いつつ去っていった。


 まあ正直、俺も両手を振って諦めて帰る選択もないわけではなかった。

 ただこいつ、俺の性格を熟知しているから……俺が本当に挫けそうなそんなタイミングで上手く煽ってくるんだよなあ。


 そんな調子で追加練習を二時間くらい行って、ようやく結衣は今日のところは勘弁する気になったようだった。

 クタクタになった俺がアスファルトに倒れこんだところで、今に至る。


「お疲れ様」


「殺す気か?」


「あなたがあたしの安い挑発に乗るからいけないんじゃない」


「安い挑発してきたことは悪くねえのかよ」


 文句もそこそこに、ずっとそばで見ているだけだった結衣が、唐突に俺に近寄ってきた。


 隣まで来て腰を下ろして、結衣は突然俺に抱き着いた。


「えっ」


 思わず、心臓がドキッとした。いきなりこの子ったら、大胆……!


 ……が、


「くんかくんか」


 ブレない。

 この女、とにかくブレない。


「うん。まあまあな出来ね」


 満足げに、結衣は俺から離れた。


「七十四点」


「人の匂いに点数付けるの止めてもらえる?」


 それ、やってること変態みたいだぞ?




 ……あ、変態か。




「とにかくお疲れ様。着替えてそのテニスウェア早く頂戴」


「せめてもうちょっと下心は隠そうな」


「無理。そのためにやってるんだから」


 あっけらかんと言われると納得しそうになるから止めろ。

 ただ、さすがにクタクタ過ぎて俺も早く帰りたいと思っていた。小鹿のような足を必死に立たせて、吊りそうなのを我慢しながら俺は部室へと歩を進めた。

 手短に着替えて、あいつが待っていると噂のさっきの場所にさっさと戻った。


「おまた……せ」


 街灯に照らされながら、あいつは真剣な眼差しでメモ帳にペンを走らせていた。

 ……外面は美人だから、こうしていると絵にはなるんだよなあ。


「あ、早かったね」


「うい」


 簡素な返事をしながら、あいつにとってはお待ちかねのテニスウェアを手渡した。


「うわああっ!」


 嬉しそうに、あいつは俺からテニスウェアをひったくった。


 スーーーーッ。

 ハーーーーーーーーッ。


「……そのさあ。それ止めない?」


「え、なんで?」


 テニスウェアから顔を離した結衣が、大層不思議そうに俺に尋ねた。


「いや……だって、変態みたいだし?」


「あんた、まだあたしが変態じゃないと思ってたの?」


「いや、ずっと変態だと思ってた」


 この幼馴染への俺の信頼感の凋落具合がえげつない件。

 

「……で、何書いているの?」


 ふと、そう言えばこいつが必死に向かうメモ帳に何が書かれているか、俺は気になった。


「これ? これはテニス日誌」


 快活に言う結衣に、俺は小首を傾げた。


「……マネージャー業の?」


「え、違うよ?」


 じゃあ、何だと言うのか。




「あんたの、テニス日誌」




 思わず、ドキッとしてびくっとした。


「……俺の?」


「うん。今日はここが調子悪そうだった、とか。この辺が良かった、とか。テニスウェアの匂いの点数だとか」


「最後はテニスと関係ない」


「関係大あり。匂いの出来が良いってことは、体のキレとか代謝が良いってことなんだから」


「……お前そんなの記録して、将来学会にでも発表する気なの?」


「アハハ。こんな貴重な情報門外不出に決まってるじゃん。殺すよ?」


 唐突な殺害予告。こいつの地雷がほんっとーにわからない。


「……最近はさ、ずっと今日も不貞腐れてるって書くだけだったんだけどさ……」


 ただ、殺害予告から一変、結衣は少し感慨深そうな顔をした。




「昨日と今日は、久しぶりにいっぱい、色んなこと書けたよっ」




 そう言って、結衣は微笑んだ。


 誰かさんがやる気を取り戻したことが嬉しそうに。

 誰かさんが快復傾向なことを待ち望んでいたように。


 微笑んでいた。




 ……真面目な奴だと思っていたんだ。

 いつだって真面目なこいつが正しくて、そのこいつの発言に心が濁る俺が間違っているんだと、ずっと思っていた。


 でも、こいつは……この変態は、まったく正しくなんてなかった。




 それに少しホッとした気持ちもあったんだ。


 自分が少しでも正しかったのではって思えて、安心していたんだ。




 でも、こうして嫌う女にずっと、長らく心配をかけていた俺は……やはり、正しくはなかったのだろう。


 こいつは、正しくない。

 でも目的のためであれば……こうして誰のためにもならないような日誌を書いてくれる。


 俺みたいな間違いだらけな人間のことを、日々記録してくれる。



 それが、ほんの少しだけ嬉しかった。


「……そっか」


 少しだけ優しい気持ちになって、俺は結衣と共に帰路に着いた。

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