第16話 そのころミカエルは2

 セギュール伯爵家の令嬢エヴァと婚約したミカエルは、相変わらずのつらい日常が続いていた。


「また美容ポーションを買えずに帰ってきたのね。ほんとに役立たず! もうあんたの顔なんか見たくもないわ、あっちに行って!」

 エヴァはそうミカエルを怒鳴り散らした。


 ミカエルは思った。

 どうして貴族の俺が、使用人のように扱われなくてはいけないんだ。

 美容ポーションを買えなかったくらいで、どうしてあの女はあんなに激高するんだ。

 しかし、今は耐えるしかない。

 俺様が伯爵の爵位を得るためには、我慢するしかないんだ。

 爵位さえ得ることができればこっちのものだ。

 そのうちにエヴァを手なづけ、セギュール家の実権を握りとってやる。


 そんなことを考えている時、またもやエヴァの怒鳴り声が聞こえてきた。


「ちょっと、ミカエル! 隣町よ、隣町の薬屋ギルドに行きなさい! そこで美容ポーションの抽選販売が行われているそうよ。今ならまだ間に合うから、走って行きなさい!」


 ミカエルは仕方がなく言われる通りにする。

 今はまだ、婚約者の身だ。

 実際に結婚したわけではない。

 伯爵の爵位は手に入れていないのだ。


 抽選受付は3時までらしい。

 もうあと20分しかない。

 抽選に間に合うことができなかったら、またひどいことを言われるに違いない。

 ミカエルは屋敷の玄関を飛び出すと、隣町の薬屋ギルドに向かって走りはじめた。


 しかし走りはじめて50メートル、一本目の角を曲がったところでミカエルは走るのを止めてしまった。


 ばかばかしい。

 なぜ、貴族の俺様が美容ポーションごときに走り回らねばならないんだ。

 抽選に遅れたとしても、間に合ったふりをしておけばいいだけのことだ。

 抽選に外れて買えなかったと言えばいいだけだ。

 エヴァが激高するのは目に見えているが、怒り狂って投げつけられる言葉を黙って聞いていれば済むだけのことである。


 ミカエルは隣町に行って帰ってくる時間をつぶすため、ギルド酒場に足を運んだ。

 また、かんしゃく持ちに罵声を浴びせられるのだ。

 その前に酒でも飲んでおこうと思ったのである。


 ギルド酒場のドアを開けると、薄暗い店内に心地いい酒の香りが充満していた。

 ミカエルはカウンターに座ると、すぐさまビールを注文した。

 短い距離だが走ったのだ。冷えたビールは最高の飲み物だった。


 そうやって一人の時間を楽しんでいる時だった。

 隣のテーブル客の会話が耳に入ってきた。


「ついに聖女候補が現れたらしいぞ」

「ああ、枯れた桜の木を生き返らせることができる白魔法使いらしいな」

「名前は確か……、アナスタシアだったかな」

「そうだ、アナスタシア・イワノフだ」


 アナスタシア・イワノフ……。

 どこかで聞いた名前だった。

 ふと、少し前に付き合っていた平民女の姿が浮かんできた。


 そう言えばあの女も、アナスタシア・イワノフという名前だったな。

 今度の聖女候補も偶然同じ名前なのか。


「しかも聖女候補のアナスタシア・イワノフ、この町に住んでいるらしいぞ」

「こんなせまい町から聖女候補が出たんだな。なんだかこちらまで嬉しくなってくるよな」

「ああ、聖女と言えば、国王より位が上だ。そんなすごいお人がこの町出身なんてことになれば、俺たちも鼻高々だぞ」


 この町に住んでいる聖女候補?

 アナスタシア・イワノフ?

 まさか?

 あの女が聖女候補になったのか?


 いや、そんなはずがない。

 俺が知っているアナスタシアは白魔法使いなんかではない。ただの町民だ。

 名前が偶然一致しているのか?


 聖女と言えば、魔物から人間を守るための結界をはる力を持った魔法使いだ。

 その能力から、聖女は国王をも凌ぐ地位を与えられている。

 そんな聖女候補に、あの女がなれるわけがない。

 あの、俺が知っているアナスタシアが聖女候補だなんてありえない。


 ただ、もし本当にあの女が聖女候補だとしたら……。

 あのアナスタシアが聖女になってしまったら……。

 聖女を手玉に取れば、国王以上の地位を手に入れることができる。


 もしあの女が聖女候補なら、俺はとんでもないお宝を手放したことになる。


 いや、そんなはずはない……。

 あの女が聖女候補なんてありえない……。


 ミカエルは心の中で、そうつぶやき続けたのだった。

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