第10話 そのころミカエルは、そして私は

(ミカエルside)


 ミカエルは笑いが止まらなかった。

 何しろセギュール伯爵家のエヴァと婚約することができたのだから。

 これで男爵家の三男だった俺が、伯爵家まで昇りつめることになる。

 いわゆる玉の輿だ。

 すべてがうまくいっている。

 そう思っていた。

 しかし、婚約の儀が終わると、ミカエルは自分の考えが浅はかだったことを知る。


「何をぼやぼやしているの! さっさと薬屋ギルドに行って美容ポーションを買ってきなさい!」

 美容ポーションというのは体を美しくする薬で、今貴族たちの間で爆発的に流行っているものだ。朝早くから薬屋ギルドに並び、やっと手に入るかどうかの代物である。


 しかし、そんな買い物をどうして俺様が。

 こんなことは使用人にやらせればいいことではないか。


 ミカエルはそう思っていたが、エヴァの機嫌を損ねるわけにはいかない。しぶしぶギルドへと足を運んだ。

 道の脇に並ぶ木々からは、鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

 明るい太陽の光が差し込み、普段なら気持ちのいいはずの朝だ。

 だが、ミカエルの心が晴れることはない。


 エヴァは婚約の義が終わると、途端にミカエルへの態度を豹変させた。

 いや、豹変させたというよりも素の自分をさらけ出したと言ったほうがいいのだろう。

 婚約前は素直で思いやりのある女性だと思っていた。

 しかし、実際はどうだ。フタを開け見えてきた実像は、自分勝手でわがままな女でしかない。

 自分より位の低いミカエルのことを、まるで使用人のように見下した態度をとるではないか。


 貴族の俺が平民以下の扱いだ。ひどすぎる……。


 ミカエルはそんなことを考えながら、足早に歩き続け、ついには薬屋ギルドに到着した。

 ギルドに面した道を見て、ミカエルは唖然としてしまった。長蛇の列ができていたのだ。


「あのー」

 列の最後尾にいた店員が申し訳無さそうに声をかけてくる。

「これから並んでいただいても、美容ポーションは売り切れていると思います。それでもお並びになりますか?」


 遅かったのだ。

 これだけの人が並んでいるのだ。

 いまさら並んでも、手に入るわけがない。

 それにもまして、貴族である俺様が使用人たちに混じってここで並び続けるわけにはいかない。


「ああ、わざわざ並んでまで買うつもりはない」

 ミカエルはそう言うと体を反転させ、もと来た道へと戻っていった。


 屋敷についたミカエルに、エヴァは発狂した。

「どういうこと! なぜ並ばなかったの!」


「いや、並んでも売り切れだと言われたんだ」


「それでもみんな並んでいたのでしょ。本当に売り切れるまで並ぶのが当たり前でしょ!」


「……」


「あなたは本当に私を愛しているの? あなたは、私ではなく伯爵という爵位を手に入れたいだけなのよ!」


 当たり前ではないか。

 爵位がなければお前なんかと結婚するわけないだろうが。


 ミカエルは心のなかでそうつぶやきながら、エヴァの罵声を浴び続けていた。


 だが、実際に手に入れかけている爵位ではあったが、本当にこれでよかったのだろうかとミカエルはふと考えることがある。

 こんな癇癪もちの好きでもない女に、一生使用人のように扱われることになるのか。そう思うとゾッとするのであった。


  ※ ※ ※


 無事に特待生試験をクリアした私は事務局で入学の手続きを行っていた。


「アナスタシアさん、あなたの回復魔法、素晴らしかったですね」

 手続きを担当してくれている事務局の男性が好意的な笑顔を見せながらそう話しかけてきた。私より少し年上だが、まだ若い男性職員だった。


 私の魔法をほめてくれている。

 しかもここは超エリートが集まるカサ魔法大学だ。そこの職員にほめられるなんて、お世辞にしても嬉しいことだ。いや、お世辞なんかではない。男性職員の表情を見れば、彼の言葉が真面目なものであることがわかる。

「ありがとうございます」

 私は素直に礼を述べた。


「ただ、ここカサ魔法大学の特待生ともなると、変な誘惑が至るところからきますので、気をつけてくださいね」


「どういうことですか?」


「あなたのことを興味本位で誘ってくる男がたくさんいるってことです」


 これは冗談なのだろうか?

 私の頭に疑問符が浮かぶ。

 ただ、どちらにしてもこの男性職員は話しやすくて明るい人に思えた。


「ところで」

 男性は改まった調子で声を出した。

「今度、僕と食事に付き合っていただけませんか?」


「ええ?」


 男性はもう一度、柔らかい表情で述べた。

「アナスタシアさん、僕と二人で食事しませんか? この近所に美味しい料理屋があるんです」


 二人で?

 私の頭の中にさらなる疑問符がわく。


 これは、

 これは、もしかして、デートの誘いなのだろうか?

 まさか。

 私なんかを誘ってくれる人なんかいるはずが……。

 そうよ。

 またきっとミカエルのときのように……。


「興味本位で誘っておられるのですか?」

 私はきっぱりと言った。

「あなたの助言通り、それならお断りします」


「いえ、決して興味本位ではありません。僕は先ほどの試験を見て、完全にあなたに心を奪われてしまっているのです」


 心を奪われる?

 信用できるの?


 私は迷った。

 そしてこう言った。

「やはり、男性と二人で食事に行くことは止めておきます」


「どうしてですか? 僕では役不足ですか?」


「いえ、そんなことは……」

 一息ついてこう続けた。

「私、決めているんです。もう男なんていらないって。男に頼らずに自分一人で生きていくって。そのために今回も特待生試験を受けたのです」


 男性は私の話を笑い飛ばすのかと思ったが、真剣な表情で聞いてくれていた。

「そうですか。あなたのような魅力に溢れる人が……、もったいない話です」


 そういうと男性は私への誘いを終わりにして、入学の手続きを優しく説明しながら続けてくれた。


「さあ、これが最後の書類です。これにサインした瞬間から、アナスタシアさんはカサ魔法大学の特待生となります」

 私は差し出される用紙にサインをする。

「では、これからよろしくおねがいします」

 男性はそう言うと右手を差し出した。


 この手はどういうこと?

 私はほんの少し迷ったが、彼の差し出された手に自分の手を合わせた。そして握手をした。


「いろいろと手続きありがとうございました」

 私はそう言うと席を立ち上がり、事務局の扉を開け、外に出た。

 扉の向こうから明るい光が差し込んできた。

 一歩外に出ると、驚くことがあった。

 なんと、そこにクリスが立って待ってくれていたのだ。


「手続き、終わったかい?」


「うん」


「少し長かったみたいだけど、何かあったの?」


「えっ、ああ、うん」


「何?」とクリス。


「事務局の男性に食事を誘われた。二人っきりでどうって」


「な、なんだって!」

 クリスは驚いた様子で声をあげた。

「そんな話、乗ったら駄目だよ。世の中、信用できる男ばかりではないんだからね」


 そんなこと知ってます。

 私は心の中で返事した。


「断ったんだろうね。そんな誘い、断ったよね」


「うん、もう男なんていらないって言って断った」

 私は冗談ぽく笑顔を見せながらそう言った。


「よかった」

 クリスは何かに気づいたように私を丸い目で見つめてきた。

「でも、アナスタシアは、もう男なんていらないと思っているの?」


「うん。一人で生きていくために、もう一度魔法の世界に戻ってきたの」


「そうなんだ」

 少しの沈黙が続いた。

 そしてクリスが口を開いた。

「ねえ、アナスタシア、今から合格祝いに何か食べに行かないかい?」


「ええ?」


「今からご飯を食べに行こう、……二人で」


「二人で?」


「そう、二人で」


「世の中、信用できる男ばかりではないのよね」


「俺は信用してくれていいよ。俺が保証する」


 本当に信用できるの?

 私はそっとつぶやいた。

 そしてクリスに聞こえるように答えた。

「クリスとなら、食事に行ってもいいかな」


「ほんと? よかった! これでも食事に誘うのはかなり緊張したんだから」


「緊張?」


「そうだよ。断られたらどうしようって、ちょっと怖かった」

 クリスは人なつっこい笑顔を見せる。

「だって俺は、君のことを……」


「なに?」


「い、いや、なんでもない」

 クリスはそう言うと私の横を歩きはじめた。

 そして私たちはクリスおすすめの料理屋さんに向かった。


 なんとなくだけど、クリスなら信用できそうな気がする。

 そんな気持ちがぼんやりと私の中に生まれてきた。そんな時だった。クリスの迷ったような小さな声が私の耳に届いてきた。



「アナスタシア、君は素敵な女性だよ。だから……、だから、早く嫌なことは忘れてしまいなよ」


「嫌なこと……」

 私の頭の中にミカエルとの出来事が浮かんできた。

 そして、こんなことを言うクリスは、もしかして……。


「クリス、あなた、もしかして……。私が婚約破棄されたことを知っていたの?」


「……ああ、うん」


 そう言えば、婚約破棄された直後、クリスと偶然に再開したんだ。

 偶然?


「教会からの帰り道、偶然にクリスと会ったけど、あれは偶然ではないの?」


「ごめん……。偶然を装って会ったんだ」


「どういうこと? いったいどういうことなの?」


「アナスタシアが評判の悪い貴族と付き合っていると聞いて、ずっと心配していたんだ」


「……」


「それで、こんなおせっかいなことをしてしまった。迷惑だったら謝る、ごめん」


「迷惑だなんて……。でも、そうならそうと始めに言ってほしかった」


「どうしても言えなかったんだよ。君を傷つけてしまうと思って……」


「……」


「アナスタシア、俺は君を裏切るようなことは絶対にしない。それだけはここで宣言するよ」


「それは、どういう意味? 思わせぶりな言葉だと、私馬鹿だから誤解してしまうわ」


「じゃあ、はっきりと言う。俺はアナスタシアのことを……」

 クリスは呼吸を整えて私を見た。

「アナスタシアのことを誰よりも大切に思っている。誰よりも君のことを愛している」


 愛している?

 そんな言葉、使っていいの?

 私はまた男の人に騙されそうになっているの?

 でも、目の前にいるクリスの顔によどみはない。

 いい加減な気持ちではないように思える。

 どうすればいいの?

 私は、何と答えればいいの?


 私はクリスの真剣な眼差しを見つめながらこう答えた。

「ありがとう。私もあなたのことが気になる存在に思えてきたところよ」


 クリスはそっと手を差し出した。私はその手を握る。クリスは繊細そうできれいな指をしている。


 私たちは手をつなぎ、無言で歩きはじめた。今の二人には陳腐な言葉などもう必要なくなっていた。

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