三章:呪縛

36話:恋が怖い

 五時過ぎ。海菜さんが出勤し、桜庭くんと翼が帰ったのと入れ替わりで、ようやく希空がやってきた。


「ごめん、マナ。思った以上に長引いた」


「ノート、ありがとう。けど、次からはしなくて良いからね。ノートなんて、後でも全然いいんだから」


「……うん。翼と桜庭くんは?」


「もう帰ったよ」


「……そっか。お母さん達は?」


「仕事。百合香さんが帰ってくるのはいつも六時過ぎ」


「体調は?」


「だいぶ良くなった。風邪引いたわけじゃなくて、生理で辛かっただけなんだ。だから、うつらないから心配しないで」


「あぁ……そうなんだ」


「大変だよね。女の子って」


「ボクはあんまり生理痛とかないから……」


「いいなぁ……私、体調も悪くなるし、メンタルも弱るからさぁ……学校休んだのは初めてきた時と、今回だけなんだけど。大人はさ、生理休暇っていうのがあるんだって。子供にもほしいよね」


「そうだねぇ……あるといいね。けど難しいよね。ボクみたいに全然何もない人も居れば、君みたいに休まないといけないくらい辛い人も居るし……」


「男の子には無いんだよね。ずるいよね」


「それは分かる。ずるいよね」


「あ、そうそう。土曜日ね、桜庭くんと翼と勉強会するんだ。うちで。希空もおいでね」


「桜庭くんもかぁ……」


「……希空は、どうして彼が嫌いなの?」


「嫌いじゃないよ。ただ……」


「ただ?」


「……君と特別仲良いのが羨ましくて」


「特別……そうかなぁ。仲の良さは希空と翼と同じくらいだと思うけど」


「……マナ」


「なぁに?」


「……本当に、何も気づいていないの?」


 泣きそうな顔をして、希空は私に翼と同じ問いを投げかける。どうしてそんな切なそうな顔をするのだろうか。探しても、心当たりは見当たらない。


「……翼にも同じこと聞かれた。……桜庭くんは『俺からも小森からもいつか必ず話す』って。……こっちから言うまで聞くなって。だから、私はそれを待つことにしたんだ。……ごめんね。本当に分からないんだ。君達が私に何を隠してるのか、本当に分からない」


「っ……じゃあ……今……話して良い?」


 俯いて、震える声で彼女は言う。


「……私は君がどんな秘密を抱えていても受け入れるよ。だって私たちは——「友達だもんね」


 少しイラついたような声で、彼女は私の言葉を遮った。少し驚いてしまうと、彼女は俯いたまま謝り、呟くように続けた。「ボクは君から友達だと言われるたびに辛かった」と。


「え……」


「ご、誤解しないでほしい!君が嫌いなわけじゃない!むしろ……むしろ逆なんだ。ボクは……ボクはずっと君が——」

 

泣きながら私を見て、震える声で、彼女は言い放つ。『好きだ』と。

それが友情の意味ではないことくらいは、流石の私でも気づいた。だけど咄嗟に、気づかないふりをして返した。「私も好きだよ」と。彼女は息を吐いて、私をまっすぐ見据えて泣きながら言う。


「どんな秘密を抱えても受け入れるって言ったくせに。流石に分かるだろ?ボクの好きは、友情の好きじゃないんだよ。だから……ごめん……ボクは……友達のままじゃ嫌なんだ……君の特別になりたい。恋人になりたい」


「恋……人……特別……」


心臓が高鳴る。冷や汗が出る。息が苦しくなる。


『お前なんて生まれなければ良かった』


『お前は人殺しだ』


『美愛を殺した悪魔だ』


『死ね!死んでしまえ!』


 父の声が反響する。視界が歪み、息が出来なくなる。立てなくなり、うずくまる。

 希空が何かを叫んでいる。だけど、聞こえない。

 怖い。怖い。怖い。怖い。

 耳を塞ぐ。声は消えない。

 希空が動く気配がして、咄嗟に手を伸ばす。


「嫌!行かないで!やだ!一人にしないで!」


「だけど……マナ、苦しそう……大人の人呼んだ方が……」


 過呼吸は、昔からよくあった。こういうときどうしたらいいか、わかっている。息を止める。そう。息を止めるんだ。大丈夫。大丈夫。聞こえる声は気のせいだ。


「……大丈夫……大丈夫……すぐ……すぐ治るから……お願い……側にいて……」


 希空にしがみつく。いつもなら普通に抱きしめてくれるのに、今日は抱きしめてくれない。


「希空……ぎゅってして……」


「……心臓がうるさいかもしれないけど……大丈夫?落ち着ける?」


「いいから……」


 彼女は私を抱きしめる。確かにうるさい。落ち着かない。だけど、誰も居ないよりはまだマシだ。


「マナ……大丈夫だよ。ボクは友達だよ」


「友達は嫌だって……言ったじゃん……」


「嫌だよ……一番になりたい。けど、それはボクのわがままだ。聞かなくていい。付き合えないより、君の側にいられなくなる方が辛い……だから……フって。マナ」


「っ……」


「付き合えないって言って」


「嫌……」


「……何が嫌?」


「怖いの……希空が、私から離れてしまうのが……友達に、恋人が出来るのが……いつか、独りぼっちになる気がして……」


「マナ……」


「お願い……誰とも付き合わないで……私も含めて、誰とも……っ……恋なんてしないで……!」


 酷いわがままだ。


「っ……わか「わからないで!やだ!私の言いなりにならないで!」


 希空には幸せになってほしい。私のものにならないでほしい。だけど、誰のものにもならないでほしい。

 矛盾したわがままな感情達がせめぎ合い、もつれあう。


「ごめんなさい……わがまま言ってごめんなさい……怒らないで……」


「……怒らないよ。大丈夫。……大丈夫だよ」


「困らせてごめんなさい……」


「大丈夫。大丈夫だから。……大丈夫」


『お前は人を不幸にする』


『お前は悪魔だ』


復唱しろと、呪いの声が響く。


「私は人を不幸にする……悪魔……」


「しないよ。人間だよ」


『人殺しだ』


「私は人殺し……」


「違う。誰も殺してない」


『お前に生きる権利なんてない。死ね』


「私に生きる権利なんてない」


「生きる権利を奪う権利は誰にもないよ」


『お前なんて生まれなければ良かった』


「っ……私なんて……生まれなければ……」


「ボクは君に出会えて良かったよ」


『誰もお前なんて愛さない』


「私を……愛して……くれる……人なんて……いない」


「マナは愛されてるよ。色んな人に。演劇部のみんなも、先生達も、みんな、マナのこと心配してたよ」


 私の口から出る父の呪いの言葉を、希空が全て打ち消していく。震える声で、だけどはっきりと否定していく。


『お前に幸せになる権利はない』


「私に幸せになる権利は——「あるよ!あるんだよ……!」


 私を抱きしめる希空の腕に力がこもる。


「もう……もう良いよマナ……もう怖がらなくて良いんだよ……大丈夫だから……落ち着いて……」


 大丈夫。大丈夫。希空は何度もそう繰り返す。

 だけど、希空の騒がしい心臓が、私の心を落ち着かせてくれなかった。

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