48話:いつか、必ず

 それから一ヶ月が経ったが、愛華の声は戻らない。学校で過呼吸を起こして早退してくる頻度が増えた。

 百合香も最近疲れた顔をすることが増えた。ため息や愚痴も増え、甘えてくることが増えた。

 私は大丈夫——とも言えない。大丈夫だと自分と妻と娘に言い聞かせながら、なんとかコントロールしている状態だ。気を抜けば、闇に飲み込まれそうになる。

 そして、今年も終わりに差し掛かったある日のこと。

 電話がかかってきた。松原さんからだ。妊娠したという報告だった。


「へぇ。おめでとう。どっちが産むの?」


「私。未来さんと違って私はフリーランスでスケジュール調整しやすいからね。無事に産まれるまでは、仕事はお休みでーす。今度そっち行って良い?」


「あぁ、うん。いつでも——」


 良いよと言いかけて止める。愛華はこの間、ドラマの出産シーンを見て発作を起こしていた。最近は特に、妊娠や出産に対して少々敏感なところがある。母親のことがあるとはいえ、昔はここまででは無かった。失声症になる前に蘇った記憶の影響も強いのだろうか。


「ごめん。うちは駄目だ」


「お、おう?何故?」


「今ちょっと、娘が色々あってね。あまり知らない人をうちに入れて刺激与えるの良くないかと思って」


 これも一応、間違いではない。

 本当の理由は、これから子供を産む人には重すぎて話せない。不安を煽ってしまうだろうから。


「そうなんだ……分かった。じゃあ、お店の方行くね」


「酒は出さないよ」


「分かってるよ。飲んでないよ」


「ノンアルコールって書いてあっても、微量のアルコールが入ってるものも多いから気をつけるんだよ」


「うん。大丈夫。ありがとう」


 電話を切ると、足音が聞こえてきた。


「おはよう。百合香」


「おはよう。誰と電話してたの?」


「松原さん。子供できたんだって」


「へぇ——えっ。松原さん?松原さんって、咲ちゃん?」


「うん。そう。松原咲ちゃん。ちょっと前にたまたま会って、子供欲しいけど望んでも良いのかなって悩んでてね。結局産むことにしたみたい」


「そう……」


 めでたい話だと言うのに暗い顔をする百合香。愛華の母親のことが気がかりなのだろう。


「……無事に産まれると良いわね」


「……そうだね」




 それから数ヶ月後。松原さんから連絡があった。無事に、3500gという少し大きめな女の子が産まれたらしい。送られてきた写真に写る赤子は彼女にそっくりだった。

 産まれた子の名前は希花きっか。後日、愛華も連れて会いに行くと『私達の希望の花だから』と名前の由来を語ってくれた。婦婦揃って、幸せそうだった。それを見て愛華は少し複雑そうな顔をしていた。連れて行かない方が良かったかと思ったが、家に帰ると彼女は、震える字で綴ってくれた。『希花ちゃんにまた会いに行きたい』と。


「うん。落ち着いたらまた会いに行こうね」


 こくりと頷き『おしゃべり出来るようになるまでどれくらいかかるの?』と綴る。


「早い子だと十ヶ月くらいかな。個人差はあるけど、遅くても一歳半くらいまでには意味のある言葉を発するようになるって」


『じゃあ、それまでに治さないとね』


 そう書いて、彼女は私を見上げて、ぎこちなく笑った。


「そうだね。けど、焦っちゃ駄目だよ」


 彼女が声を失って半年。いつ治るかは分からない。一生治らないのではないかという不安もなくはないが、決して諦めてはいない。彼女も私も、百合香も。だって、笑い声を発することはできるのだから。必ず、必ずいつか治る。今はただ、そのいつかがくるその日まで、希望を捨てずに信じ続けるしかない。

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