最終章:呪縛を解いて

46話:絶対に不幸になんてさせない

「お疲れ。戸締りはやっておくから。さっさと帰れ」


「ありがとう母さん。お疲れ様」


 結局、仕事中一度も電話はなかった。一応確認してみるが、メッセージも無い。今日は何もなかったのだろうか。


「ただいま」


 珍しくリビングの電気が付いている。まだ起きているのだろうか。扉を開けると、そこに居たのは百合香ではなく愛華だった。私に気付くと、コップにお茶を酌む手を止めて「おかえり」と、声には出さずに口パクで伝えた。そして喉を押さえて俯く。何やら様子がおかしい。


「どうした?」


 問いかけると、彼女は泣きそうな顔で私を見て、口をぱくぱくさせる。だけど何も言わない。彼女の喉から出るのはスーという空気の音のみ。


「もしかして、声が出ない?」


 頷いて、交換日記を私の元に持ってきた。


「読めって?」


 こくこくと彼女は大きく頷く。日記に百合香の字でこう綴られていた。『突然、愛華の声がでなくなった』『失声症かもしれない』と。


「……そっか。急に出なくなっちゃったんだね」


 こくりと彼女は頷く。


「今日は眠れた?」


 ふるふると首を横に振る。


「そっか。まぁでも、お昼寝したせいもあるかもしれないね。ホットミルクでも淹れようか」


 牛乳を火にかけて温めようと台所に入ると、彼女はちょこちょこと後を着いてきて、腰に抱きついてきた。


「お。なんだ。甘えたい気分なのか?」


 こくこくと彼女は頷く。


「ははは。よしよし。好きなだけ甘えな。百合香には内緒だぞ。妬いちゃうから」


「ふふふ」


 微かに、彼女の喉から笑い声が漏れた。彼女はハッとして私を見上げる。


「うん。聞こえたよ。君の笑い声」


 目を輝かせて、口をぱくぱくさせて何かを訴える。だけど声にはならず、スースーと空気が漏れるだけ。一瞬だけ輝いた瞳はまたすぐに曇ってしまう。どうしてと言わんばかりに悲しそうな顔をして俯いてしまった。

 笑い声が出るということは、声が出ない原因はやはり声帯ではなく、精神的なものだろうか。


「きっと、心が疲れちゃったんだよ。たくさん頑張ったから。だから、今は少しお休みさせてあげよう。幸い、今日明日は学校もないし、とりあえずは病院行って、その後どこか出かけようか。行きたいところある?」


 ふるふると首を横に振る。


「そんな気分になれないか」


 こくこくと頷く。


「じゃあ、お家でゆっくりしよう。はい、ホットミルク」


 ホットミルクを二杯、カウンターに置いて、腰にしがみついて離れない愛華を引きずって席に着かせる。

 隣に座って一緒になってホットミルクを飲んでいると、ふぁ……と隣から小さな声が聞こえた。


「これ飲んだらお部屋行こうか」


 彼女は眠そうに目を擦って、こくりと頷く。やはり小さな声は出るものの、話すことは出来ないらしい。

 うつらうつらと頭を揺らす彼女を抱き抱えて、私と百合香の寝室へ向かう。クイーンサイズのベッドを百合香が一人で占領していた。


「百合香」


 声をかけると、ん……うっすらと目を開けながら返事をして奥に転がった。隣に愛華を寝かせて、その隣に寝転がる。このベッドを買ったのは愛華が来る前。『二人で寝るのにクイーンサイズは大きくない?』なんて言う百合香に『いつか三人になるかもしれないでしょ』と私は返した。半分くらいは冗談で、もう半分は本気だった。私の想像ではもう少し狭くなる予定だったけど。


「海菜……おかえり……」


「ただいま。起こしちゃった?」


「愛華は……?」


「ここにいるよ」


「ん……」


 隣に並んだ愛華を抱き枕にして、再び寝息を立て始めてしまった。愛華もすぐに寝息を立て始める。

 二人を抱きしめて、私も目を閉じる。


「愛華……ごめんなさい」


 微睡の中、百合香のそんな悲痛な声が聞こえた気がした。誰も悪くない。百合香も、愛華も、それから愛華に恋心を抱いた子達も、愛華をこの世界に産み落として亡くなった母親も。誰も悪くない。

愛華を虐待してしまった父親だけは、悪くないとは言ってあげられないけど。今愛華がこんな状態になっているのは、元を辿れば彼のせいでもあるから。愛する妻を亡くした上に子育ての疲れで病んでしまったせいだとしても、それでも、同情で許すことは私には出来ない。そもそも、彼を許す許さないを決めるのは愛華だ。許す権利があるのは愛華だけだ。だけど、例え愛華が彼を許しても、私は許せない。

 私は必ず、父親が不幸にした分まで、この子を幸せにする。私が、私達が、必ず。

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