50話:何年でも待つよ

 あの日から一度も学校に行けないまま、夏が過ぎて、秋が過ぎて、冬が過ぎ、そしてまた春がやってきた。私は今日、中学三年生になる。

 私が失声症になってから生まれた松原希花ちゃんはもうすぐ一歳半。もう話せるようになったらしい。彼女のお母さん——私が通う図書館の司書さんが、そう教えてくれた。


「おはよう。愛華」


「……」


 私の声は相変わらずだ。出るはずなのに、出ない。悔し涙を堪えて、笑顔を作って、おはようと大きな字で書いた紙を全力で掲げてアピールする日々。この紙は使い回しではなく、毎回毎回書いている。もったいない気もするが、毎日書いた方がちゃんと挨拶をしている感じがして。

 おはようを書くことは、すっかり日課になってしまった。最近はもう、自分がどんな声だったかも、忘れつつある。

 だけどまだ、希望を捨ててはいない。学校には行けなくなってしまったけれど、勉強はしている。海菜さんと百合香さんだけではなく、二人の友達、おばあちゃんおじいちゃん、伯父さん伯母さん——私を支えてくれる大人達が沢山いる。

 そして——


「マナ、来たよ」


「お邪魔します」


「よっ。小桜」


 希空、翼、桜庭くんを始め、色んな人がほぼ毎日、放課後にうちに来てくれる。同級生だけではなく、卒業した先輩達もたまに。希空と翼と桜庭くんの三人は、ほぼ毎日来てくれる。

 筆談用のノートは、私を愛してくれる沢山の人達との会話で埋まり、一年半で十冊も溜まってしまった。その中のほとんどが、希空達との会話だ。


「なんか今日ご機嫌だね?」


『私、愛されてるなぁって思って』


 学校に行きたくないと言えば嘘になる。だけど、今の生活も悪くない。声が出せないのはやっぱり不便だけど。


「あのさ、マナ。聞いても良い?」


 希空が恐る恐る問う。『高校のこと?』と問うと、彼女はこくりと頷いた。

 考えてはいる。が、考えると不安になる。過呼吸のこと、声のこと。『学校に来るな』と私を責める声が響く。呼吸が乱れそうになると、希空が私の手を握って、ごめんと謝った。

 呼吸を整えて、首を横に振って『三人はどうするの?』と質問を返す。


「私は蒼明」


「は!?蒼明っておま……マジで?」


「マジよ。大マジ」


 蒼明高校というと、県内一の名門と言われている有名なところだ。翼のお姉さんの涼さんも受験していた。残念ながら落ちてしまったが、そこから持ち直して蒼葉大学という県内一の大学に進学した。翼も涼さんの背中を追いかけて決めたらしい。

 希空は県内トップの商業高校である青山商業、桜庭くんは工業高校のトップではないもののそこそこ偏差値の高い北桜ほくおう工業。


北工きたこうかぁ……私の知り合いに何人か卒業生が居るけど、今は全然違う雰囲気らしいね」


 海菜さんが話に入ってくる。


「……卒業生って何年前ですか?」


「んー。二十年近く前?」


「一番荒れてた頃じゃん……」


「あははっ。そうだね。みんな荒れてたよ」


 北桜ほくおう工業——通称北工は、今は普通の工業高校だが、海菜さんが学生だった頃は荒れていたらしい。知り合いというのはもしかして、海菜さんが一緒に学校サボっていたと言っていた人達だろうか。


「海菜さんってもしかして、元ヤンだったり?」


「いや、私は別にそんなことなかったよ」


「……怪しい」


「海菜さん、青商でしたっけ」


「うん。そう。青山商業」


「ボク、青商受ける予定です」


「お。頑張ってね」


「はい」


 翼が蒼明、希空が青商、桜庭くんが北工。三人ともバラバラの高校に進学するようだ。学科もバラバラ。

 三人と同じ学校に通えるのは、もうこの一年しかない。だけど——


『学校来るなよ』


『迷惑』


 学校のことを考えるだけで、私を責める声が響く。

 息苦しくなる。だけど逆に息を止める。そうするのが正解だということはもう頭に叩き込んである。

 落ち着いた頃には、桜庭くんと翼は居なくなって、希空だけが残っていた。


「……落ち着いた?」


 頷く。海菜さんも居ない。


「海菜さんは仕事に行ったよ。百合香さんが帰ってくるまではボクが居るからね」


 最近私は一人になることがほとんど無い。常に誰かが側にいてくれる。ありがたいのだけど、今は一人になりたい。そう伝えると、彼女は「分かった」と言って立ち上がった。そして、私の部屋からぬいぐるみを三体持ち出してきて、私に渡した。


「……じゃあ、ボクは帰るね」


 またね。とノートに書いて見せる。希空もその下に、またねと書いて家を出て行った。

 ぬいぐるみ達を抱きしめて、希空の書いた字をなぞる。


『好きだよ』


 私に告白をしてくれたあの日の希空の優しい声が反響すると、心臓が高鳴る。これはもう、怖いからではない。

 私も希空が好き。と、ノートに小さく薄く書き、消しゴムで消す。

 あれ以来、希空に好きだとか愛してるだとか言われたことはない。だけど


『待てるよ。好きだもん。少しでも君の特別な人になれる可能性があるなら、それにかけたくなるくらいに。というか、今のボクはね、君以外好きになれる気がしないんだ。好きでもない人と恋愛したいとは思えない。……だから、全然待てるよ。何年でも』


 失声症になる前に言われた言葉は、今も一言一句思い出せる。

 私は希空が好き。希空とのLINKのトーク画面にそう打って、深呼吸をして、送信する。

 すぐに既読がついた。そしてすぐに『ボクも』と返ってきた。『気持ちはずっと変わらないよ。あの時から』『君が好きだよ』と続く。心臓が高鳴る。これはもう、怖いからではない。嫌なドキドキではない。

 震える指で、もう一度打ち込む。『希空が好き』と。そして『いつか、文字じゃなくて声にして伝えたい』と続ける。『大丈夫。待つよ。何年でも』と返ってきて、涙が溢れた。

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