8話:幸せは当人が決めるものだから
4月13日金曜日の朝。
いつも通り午前6時に目が覚めた。愛華の部屋で寝た日以外は、隣で海菜が寝ているのだけど、今日は居ない。こんな日は大体、日記を書いている途中に寝落ちしている。
リビングへ向かうと、案の定、彼女を見つけた。しかし、机の前ではなくソファで寝ている。愛華を抱いて。夜中に廊下で物音がしたのは気付いていたが、そのまま部屋に戻らなかったのだろうか。
とりあえず、リビングの電気はつけずにキッチンの電気だけをつけてコーヒーを淹れる。その間にブランケットを取りに行き、二人にそっとかけると、うっすらと海菜の瞳が開く。
「…ん…おはよう。百合香」
「おはよう。愛華はどうしてこんなところで寝てるの?何かあった?」
「うん…。例のアレがきて、ちょっとパニックになっちゃって。体調もあんまり良くないみたい。お腹痛い、気持ち悪いって」
「そう…」
「…ん…」
話していると、愛華がうっすらと目を開けた。
「おはよう。体調はどう?」
「…あんまり」
「良くない?」
「…気持ち悪い…」
「ご飯食べられそう?」
私の問いに愛華はふるふると首を振った。
「…今日は、学校お休みしましょうか」
「…学校は行きたい」
「無理しちゃダメよ」
「でも…」
「じゃあ、ギリギリまで様子見ようか。良くなるかもしれないしね」
海菜がそう声をかけると、愛華は渋々頷いた。
7時50分。愛華はソファからほとんど動かない。たまにトイレに立つくらいだ。
「学校に電話するわね」
声をかけると、彼女は黙ってこくりと頷いた。愛華が通う中学校に電話をかける。
「おはようございます。一年一組小桜愛華の保護者です。娘がお世話になっております。今日は体調が悪いみたいなのでお休みさせてください。…あぁ、いえ、熱は無いです。大丈夫です。ご心配いただきありがとうございます。…はい。失礼いたします」
通話を終了して振り返ると、愛華は海菜にしがみついていた。海菜が彼女の頭を撫でながら、しーと人差し指を唇の前に立てる。
しかし、インターフォンが鳴り、愛華はハッと飛び起きる。この時間にインターフォンを押すのは愛華の友人達だろう。
「自分で話に行ける?」
「うん…ちょっと良くなった。行ってくる」
おぼつかない足取りで玄関へ向かう愛華。
「…海菜、あの子のことよろしくね」
「ん。大丈夫だよ。任せて」
こういう時だけは、お互い仕事の時間が逆転していて良かったって思う。できれば私も愛華の側にいてあげたいが、海菜が居てくれるなら私は私の仕事をした方がいいだろう。
洗面所に向かい、着替えてメイクをしていると、鏡の端から愛華が顔を覗かせた。
「…どうしたの?」
「…見てるだけ」
「ふふ…何よそれ。あんまり見ないで。恥ずかしいから」
「…じー」
「もー…ふふ」
「ふふ」
私が笑うと、鏡の中の彼女も釣られて笑う。まだ元気が無いが、少しは良くなったようで安心した。
「仕事行ってくるわね」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」
「えぇ」
昼休み。LINKに海菜からメッセージがきていた。
『今はもうすっかりいつも通りだけど、食欲だけはまだ戻らないみたい。お昼は生姜入りのお粥にしました』
美味しそうなお粥の写真が送られてくる。
今朝からずっと起きていてくれているのだろうか。問うと『お昼食べたらちょっと仮眠する』と返ってきた。そうしてほしい。愛華も心配だが、海菜も心配だ。彼女は人のために頑張りすぎるところがあるから。
「小桜さん、お隣いいですか?」
「あぁ、三宅さん。どうぞ」
「失礼します」
弁当を持って隣にやってきたのは入社したばかりの
「今日、お暇ですか?飲みに行きません?」
「ごめんなさい。今日はダメ。娘が体調崩して学校休んでるから」
「えっ、子供いるんですか!?学校ってことは…小学生?」
「中学生」
「ええ!?小桜さんって確か…まだ20代…ですよね?」
三宅さんが驚くのも無理はない。私は今年で30歳になる。産んでいたとしたら高校生で産んだことになる。あり得なくはない話だが、そう多くはないだろう。
「養子なの」
「あぁ、なるほど…養子かぁ…」
これを言うと聞いていいのかと気を使って黙ってしまう人が多いのだが、三宅さんは「なんで養子取ろうと思ったんですか?」とストレートに質問をぶつけてきた。
近くにいた同僚に肘で突かれ、首をかしげる。
「…ふふ。あなたのそういうストレートなところ、私は割と好きよ」
「えっ。あ、ありがとうございます…?」
詳しく聞かれたくない話ならそもそもしない。三宅さんはそれを理解してくれたのか、ただ単に空気を読むのが苦手な人なのか知らないが、多分、前者だろう。彼女は人の話をよく聞いて、人のことをよく見ている。気配りができない人ではないはずだ。
「私ね、女性と結婚してるから、自然に子供が出来るわけじゃないの。だから……っていうとエゴだっていう人もいるけど……そういうことよ」
「あぁ、なるほど……左耳しかピアスつけてないのってそういうことです?」
「これは別に違うわ。妻とペアのピアスを半分こしてるだけ」
「えー!ラブラブじゃないですかー。やだぁー。いいなぁ。……ぼくも、彼女がいるんですけど……最近上手くいってなくて…。……なんとなーく、小桜さん恋愛経験豊富そうだし、てか、既婚者だし、相談に乗ってもらいたいなーって思ってたんですけど……」
「あぁ、だから飲みに行きたいって?」
「そうです」
「そうね。基本、水曜日以外なら空いてるけど、出来れば金曜日が良い」
「じゃあ、来週……いや、再来週の金曜日にしましょう。給料日後ですし」
「再来週……27日ね。空けておくわ」
「はい。……ところで、水曜日は何かあるんですか?」
「ちょっとね」
「触れられたら困る感じです?」
「別に。妻の仕事が休みってだけ。あの子、夜勤で働いているから、同じ家で暮らしていてもあまり顔を合わせられないの」
「……なるほど。パートナーさんとの時間だから邪魔するなってことっすね」
「ふふ。そういうこと」
「付き合って何年くらいですか?」
「高一から付き合ってるから……15年くらいかしら」
「えっ、高一から!?一回も別れずに!?」
「ええ」
「すげぇ……長続きする秘訣とかあるんですか?」
「そう言われても……多分、私と彼女はよっぽど相性が良かったのだと思う。けどそうね……強いていうなら、コミュニケーションを大切にすることくらいかしら。私達は仕事の時間が逆転していてすれ違う時間が多いから、顔を合わせなくても言いたいことを言えるように交換日記をしているの」
「交換日記?付き合い始めてからずっと?」
「彼女が働き始めてからだから…8年くらいかしら」
「へぇ……交換日記は小桜さんから?パートナーさんから?どっちから言い出したんですか?」
「向こうから」
「めちゃくちゃモテそう」
「そうね……すごくモテる」
たまにバーに行くと、お客さんに言い寄られていることがある。もちろん『妻が居る』ときっぱり断ってくれているし、私が見て居ないところでもそれは変わらないと信じているのだが、良い気はしない。
と、ここでスマホが鳴る。愛華からだ。『海菜さん寝たよ』という一言の後に、ベッドで抱き枕に頭を埋める彼女の写真——いや、動画だ。
「あっ」
誤って再生してしまう。『百合香……愛してるよ……』と彼女の寝惚けた声が大音量で流れてしまった。慌てて音を下げるが、時すでに遅し。休憩室が静まり返り、私に視線が集まる。
「……ラブラブですね」
三宅さんが苦笑いしながら呟いた言葉と同じ言葉が、同時に愛華から送られてきた。
「……聞かなかったことにしてちょうだい」
彼女の口から紡がれる愛の言葉なんてもう飽きるほど聞いた。今更恥ずかしさなんてないけれど、流石に人に聞かれるのは恥ずかしくて仕方ない。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
愛華に『今から帰る』と一言連絡を入れようとスマホを開くと、彼女からLINKが来ていた。また動画だ。今度はなんだろう。電車に乗ってからイヤホンをつけて確認する。
『何作るの?』
『親子丼と味噌汁。愛華は味噌汁の方をお願いします』
『はーい』
愛華と海菜が一緒に料理をしている動画だ。元々愛華は料理が苦手だったが、自ら、出来るようになりたいと言って去年から私達の手伝いを積極的にしていた。
『マナ、指切らないように気をつけてね』
『うん。猫の手だよね』
『そう。百合香の手ね』
『あははっ。百合香さん猫っぽいよね』
誰が猫よ。と心の中でツッコミを入れる。
慣れた手つきで玉ねぎをきざむ海菜とは対照的に、隣で長ねぎをきざむ愛華の手つきはぎこちない。
『そういえば、うちの玉ねぎって目にしみないよね。玉ねぎが違うの?』
『あぁ、切る前に冷蔵庫に入れておくとしみないんだよ』
『ほー……なんで?』
『冷やすことで、硫化アリルっていう目に染みる成分が飛び散りにくくなるんだ』
『リューカアリル?……なんか身体に悪そう』
『ふふ。むしろ良いんだよ。玉ねぎを食べると血液がサラサラになるって言われてるのは、この硫化アリルが血液が固まらないように働いてくれるからなんだ』
『目に入ると痛いけど、身体には良いんだね』
『そう。ネギやわさびにも入ってるよ。ちなみに、玉ねぎが辛いのもこいつの仕業』
会話をしながら料理をする二人。愛華と出会ったばかりの頃には考えられなかった光景だ。
『……よし、出来た』
『……うん。良い味。マナちゃん天才』
『へへ……褒め上手なんだからぁー』
私達に三人に血の繋がりはない。だけど、紛れもなく家族だ。私は同性と結婚したことも、子供を産まない選択をしたことも、血の繋がらない子供の里親になったことも、何一つ、後悔していない。この幸せそうな笑顔を見ても可哀想だという人がいたら、その人はよっぽど目が悪いのだろう。私達の幸せは誰がなんと言おうと、私達が決める。
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