9話:もう一人のお母さん

 私には、百合香さんと海菜さんの他にもう一人母親が居る。いや、居た。私を産んだ母親だ。

 私を産んだ母親の名前はと書いて美愛みあ。顔は写真でしか見たことが無いし、声も知らない。私が母について知っていることは、私の命と引き換えに亡くなったことだけ。


「お前のせいで美愛は死んだんだ。お前なんて産まれなければ。お前が死ねば良かったのに」


 男性が私に向かって呪いを吐く。多分、父だと思う。どうしてだか、私は父の顔をよく思い出せない。いつも恐ろしくてちゃんと見れなかったからかもしれない。だけど、声は今もはっきりと覚えている。


「死ね!死ね!死んでしまえ!美愛を返せ!悪魔!」


 男性は私の腹を蹴り、倒れた私を何度も蹴った。


「ごめんなさい」


 生まれてきてごめんなさい。ごめんなさいお父さん。ごめんなさいお母さん。私のせいで、私のせいでお母さんは死んでしまった。私が生まれたから、お父さんは不幸になった。

 私が死ねば良かった。

 お母さんの代わりに私が死ねば良かった。

 私が死ねば。

 私が——


「——生きて。愛華」






「!…」


 夢を見た。父に「死ね」と罵られるいつもの悪夢だ。最近は見なかったのに。色々な不安が重なったからだろうか。

 だけど、今日はいつもと少し違った。

 誰かが私に「生きて」と声をかけてくれた。海菜さんでも百合香さんでもないその、知らない声のはずなのに何故か懐かしい気がした優しい声が、頭の中にはっきりと残っている。心がきゅっと締め付けられる。


「…!…マナ?起きてるの?」


 海菜さんの声で現実に引き戻される。目が合うと彼女は心配そうに駆け寄ってきて私を抱きしめた。


「どうした?大丈夫?」


 彼女の背中に腕を回して肩に頭を埋めると、少しだけ心が落ち着いた。


「…いつもの夢見たの」


「あぁ…そっか。…色々あったからちょっと疲れているのかもしれないね」


 繰り返し見る悪夢の話も、私の両親の話も、海菜さん達には全部話してある。


「…今日は…いつもと違ったの」


「ん?どこが違ったの?」


「『生きて』って」


「生きて?」


「…女の人が私に…『生きて、愛華』って。…多分…お母さんだと思う。…私の代わりに死んじゃったお母さん」


 私は母の声を知らない。顔は写真でしか見たことがなくて、はっきりとは思い浮かべられない。けれど、あの人が母だということは分かる。


「…そっか。私もこの間、君のお母さんに夢で会ったよ。『愛華をよろしくお願いします』って言ってた」


「…どんな顔だった?」


「ふふ。君にそっくりだったよ。…実際に会ったことないから、本人かどうか分からないけどね」


「…百合香さんのところにも行ってるかな」


「行ってるかもしれないね」


「…そっか」


「…大丈夫?」


「…うん」


「…眠れそう?」


「…隣にいてほしい」


「ん。よし」


 私を抱きしめたまま、海菜さんはベッドに転がる。


「…人には誰にでも生きる権利がある。もちろん君にもね。その権利を奪う権利は誰にも無い。だから大丈夫。誰かに死ねと言われたって、自分は死ななきゃいけない人間だと思う必要はない。それに、君が死んだって、君のお母さんは帰ってこない。だから…最後まで精一杯生きよう。お母さんが守ってくれた命が尽きるまで。君がお母さんのためにしなきゃいけないのは死ぬことじゃなくて、生きることだよ」


「…うん」


「大丈夫だよ。頑張って生きられるように、私達が君を支える。さぁ愛華、目を閉じて」


「…うん」


 目を閉じる。またあの夢を見たらどうしよう。そんな不安な気持ちは、海菜さんの「大丈夫」という声に溶かされていく。





「…愛華」


 目が覚めると、目の前に居たのは海菜さんでも百合香さんでも無い、私に『生きて』と言ったあの女性だ。女性は私を優しく抱きしめると、私の肩に頭を埋めて泣き始めてしまった。


「…私、今、海菜さんと百合香さんっていう婦婦と暮らしてるんだ」


「…知ってる。見てたから。ずっと…見ていたから。…ずっと見ていたのに、私はあなたを守ってあげられなかった。ごめんね」


「…謝らなくていいよ。私が今生きてるのは、あなたが命をかけて私を産んでくれたからなんでしょう」


 父から散々聞かされた。私の母は私の命と引き換えに死んだのだと。

 母はどうして私なんかのために死んだのか、私が代わりに死ねば良かったのにと、海菜さん達に出会うまではずっと、本気でそう思っていた。だけど、今は違う。


「ありがとうって言っていいのか…分からないけど…私、頑張って、あなたの分まで生きるよ」


 私が死んだって母は生き返ったりはしない。だからこそ、私は生きなければならない。誰になんと言われても、母に貰ったこの命が尽きるまで。


「だから、これからも見守っていてね。お母さん」


 私がそういうと彼女は泣きながら「ずっと見守っているわ」と笑った。

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