42話:心に触れて

「……クッソ暇だな」


 桃花中は今日も平和だ。名簿を読み込むか、学校散策くらいしかやることが無い。一応、授業が終わってから一時間くらいは待つことにしているが、誰か来たことはほとんどない。

 どうせ今日も誰も来ないだろうと思い、ソファの上に居座る熊のぬいぐるみを目立つ場所に移動させ「先生は現在留守にしてます」という文言を書いた札をぬいぐるみにぶら下げて相談室を出ようとすると、外から「いやああああ!」と、ただごとでは無い悲鳴が聞こえてきた。引き返し、窓を開けて外を覗く。数人の生徒が集まっている。その中の一人がうずくまっていて、他の三人は呆然としている。2階からでは見づらいが、呆然としているうちの二人は多分、愛華と仲のいい二人だ。もう一人は知らないが、うずくまっているのは愛華だろうか。


「大丈夫かー!何があった!」


 二階から声をかけると、三人が顔を上げた。「助けてください!愛華が!」と、女の子の声。


「今行く!危ないからちょっと退いてろ!」


 姉川先生に「相談室の窓閉めておいてください」とメッセージを送ってから、窓から身を乗り出す。


「えっ、ちょっ、まさか飛び降りる気ですか!?」


「大丈夫!死ぬような高さじゃないから!」


「「「いやいやいやいや!」」」


 飛び降り、受け身を取って着地し、過呼吸になっている愛華の元へ駆け寄り、抱き寄せる。


「愛華、私の声聞こえるか?」


 声をかけると、彼女は荒い呼吸を繰り返しながら小さく頷いた。


「よし。息止められるか?」


「は……い……」


「ん。そのまま。ギリギリまで止めて。……限界になったら吸って……また息止めて……そう。繰り返して。止めて……吸う……止めて……吸う……」


 繰り返すうちに、だんだんと乱れていた呼吸が落ち着いてきた。


「あ、あの、救急車呼ばなくて大丈夫ですか……?」


 愛華とよく一緒にいる二人のうちの、小さい方の女の子が不安そうに問う。


「あぁ。大丈夫だ。ただの過呼吸だよ。ついでに言うと、私も無傷だから」


「……ただの……過呼吸……」


「ちょっとパニックになってただけだろう。心配しなくても死にはしない。で?愛華がこうなる前、どんな話をしていたんだ?」


 三人は問いに答えず黙り込む。


「あ、あの……いじめとかじゃ……無いです……」


 三人の代わりに、腕の中で震える愛華が震える声で弁解をした。


「あぁ。別にそれは疑ってないよ。普段から仲良い様子は伺っているからな。話せないなら別に話さなくて良い」


「……桜庭くん……希空……」


「なんだ」


「何?マナ」


「先生に……話してもいい?どういう話をしたのか……説明するのに……必要だから……」


「……あぁ」


「うん……大丈夫」


「……うん」


「よし、相談室行くか。どうする?友達にも一緒に居てもらう?」


「先生と……二人で話したい……」


「ん。分かった。だそうだ。悪いがちょっと借りてくよ」


 私にしがみついて震えている愛華を抱き上げる。


「マナ……」


「……小森、今はそっとしておこう」


「……マナ、私達は先帰るから。また明日」


「ボクは待——「帰るよ。希空」


 小さい女の子を引きずって、二人は私に頭を下げて去っていく。愛華は彼女達の方を見ないまま、ただ何かに怯えるように震えるだけ。


「過呼吸になりそうになったら息止めて。限界まで止めて、吸う。それを繰り返す。いい?分かった?」


「はい……」


「よし。じゃ、このまま相談室行くぞー」


 彼女を抱き抱えて相談室へ向かっていると、正面から血相を変えて走ってくる大人が一人。姉川先生だ。


「ちょっと!月島先生!なんで窓開けっぱなしで靴も履き替えずに下にいるんですか!?まさか飛び降りたんじゃないでしょうね!?」


「いやぁ。緊急事態だったんで」


「だからって窓から飛び降りますか!?二階ですよ!?何考えてるんですか!」


「大丈夫っすよ。二階ぐらいの高さじゃ死なない死なない」


「先生だけの問題じゃないんです!生徒が真似したらどうするんですか!カッコいい演出に憧れるお年頃なんですから!」


 確かにそれは一理ある。そこまで頭が回らなかった。しかし、今はお説教を聞いている場合ではない。「怒らないで……」という愛華の怯えるような声で、先生もハッとした。


「すみません。先生、お説教は後でお願いします。私ちょっとこの子の話聞かなきゃいけなくて」


「何があったんですか?」


「話は後で。失礼します」


 愛華を連れて相談室へ急ぐ。

 相談室に入り、ソファに愛華を座らせて、私の身代わりを務めてくれていたぬいぐるみを抱かせる。


「お茶淹れるから待ってろ」


「……はい」


 お茶を用意して、正面に座る。彼女はお茶を一口飲んでから、ぽつりぽつりと、震える声で語り始めた。

 三日前、さっき一緒にいた小さい女の子——希空ちゃんに恋心を告白され、背の高い男の子——桜庭くんにも告白され、二人への好きという感情に違いがあるのかという悩みを桜庭くんが解決してくれたらしい。そして愛華は、桜庭くんに対する好きは友情だが、希空ちゃんに対する好きはそうではないことを認めた。それを彼女に伝えようとしたのだが、そこで過去のトラウマが蘇って言葉に詰まってしまい、彼女に応援されながらなんとかトラウマを乗り越えようとしていたのだが、逆にそのせいで自分自身も忘れていたほどの強いトラウマを呼び起こしてしまったのだという。

 震える手にそっと手を重ねる。彼女は私の手を強く握りしめて、震えながら続きを語った。


「お父さんは……たまに……私のことをお母さんだと思って……『愛してるよ美愛』って……優しい顔で笑って言うんです……『私は愛華だよ』って言うと……言うんです……『娘を亡くして混乱してるんだね』って……私をお母さんだと認識している時は……怖いくらい……優しくて——っ……」


 妻と認知されていた時だけは愛されていると感じたと、愛華は語る。以前彼女は人から向けられる恋愛感情が怖いと言っていたが、その恐怖の本質は今まで抜けていた記憶によるものだったようだ。

 愛は人を狂わせる。それを愛華は、まだ物心ついて間もない幼い頃に知ってしまったらしい。


「……そうか」


 妻が亡くなったことによる悲しみは、妻と引き換えに生まれた小さな命に対する憎悪に変わった。そしていつしか、亡くなったのは妻ではなく、娘の方だと認知の歪みを起こすほどに病んでしまった。そんな父親一人に育てられて、愛華の心はどれだけズタズタにされたのだろう。

 だけど愛華は言う『泣きながら謝る日もあった』と。虐待をする親はそういう人も多い。したくてしているわけではない人も多い。

 むしろ、優しい時がある方がタチが悪い。同情して許してあげないといけないと思わされてしまうから。


「……父親のこと、無理に許す必要はないんだよ。愛華」


 虐待は罪だ。罪は罪だ。どんな事情があろうと、許すべきではない。許さなくていい。愛華の父親が、彼女の心に深い傷を負わせたことは事実なのだから。


「は……い……」


「……辛かったな」


 かける言葉が見つからなくて、当たり障りのない言葉しか出てこなかった。

 泣き噦る彼女の隣に移動して、抱き寄せる。

 私は今まで、色んな子供達と接してきた。中には親から虐待を受けた子も多く居た。しかし、ここまで深い闇を抱えた子は初めてだ。

 彼女はトラウマを乗り越えようと必死に戦っている。応援してやりたい。一緒に戦ってやりたい。だけど、私に出来る事は限られている。


「……お母さん呼ぶから。今日は帰りなさい。……あいつにも聞いてもらった方が良い」


「……」


「私から話しても良いならそれでも構わないが、どうする?」


「……自分で話します」


「……そうか。出来るならその方が良い。ただ、無理はするなよ」


「……はい」


「んじゃ、迎え呼ぶぞ」


 愛華を抱いたまま、電話をかける。


「愛華に何かあった?」


「ちょっとな。帰らせるから迎えに来い」


「ん。すぐ行く」


 通話は数十秒で終わった。こういう時、知り合いだと話が早くて楽だ。


「愛華」


 数分もしないうちに、うみちゃんがやって来た。愛華を引き渡す。


「何があったかは自分で話すって。聞いてやれ」


「分かった。帰ろうか、愛華」


「……うん。先生、ありがとうございました」


「おう。帰ってゆっくり休め」


「はい……」


「……満ちゃん」


「なんだ」


 愛華をあやしながら、うみちゃんはポケットからハンカチを取り出して机の上に置いて「ごめん。ありがとう」とだけ言って出て行った。

 誰も居なくなると、堪えていた涙が疲れと共にドッと溢れ出した。

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