37話:幸せになってはいけない
定時を迎えた。しかし、仕事が微妙に残ってしまった。キリが良いところまでは終わらせたい。
「小桜さん、今日珍しく残るの?」
「いえ。これ終わらせたら速攻で帰るので仕事増やさないでほしいです」
「急いでる?」
「はい。今日は早く帰ると娘と約束したので」
「分かった。別の人に頼むよ」
「ありがとうございます。そうして貰えると助かります。では、お先に失礼します」
仕事にケリをつけて席を立ち上がる。
「今日水曜日だっけ?」「娘が体調崩してるらしいよ」「けど、中学生でしょ?ちょっとくらい放っておいてもよくない?」「過保護だよねぇ」「血が繋がってないこと気にしてるんじゃないかな」「残業したくない理由作ってるだけじゃない?」「水曜日は妻が休みだから早く帰りたいってのもねぇ……」「ラブラブアピール必死すぎてきついよね」「逆に婦婦仲悪そう」「そのうち離婚しそうだよね」「つか勿体無いよなぁ美人なのに女と結婚って」と、聞こえてくる悪口を無視して、足速に会社を出る準備をしていると「部長、ぼくに出来ることはありますか?」と、三宅さんの声が聞こえた。「じゃあ君にお願いするよ。いつもやってる簡単な仕事だから」と部長。思わず振り返ると「お疲れ様です。また明日」と三宅さんに微笑まれる。入社してまだ半年弱だというのに、すっかり頼もしくなったものだ。
「ありがとう。三宅さん」
「いえいえ。どういたしまして」
「お疲れ様。お先に失礼します」
三宅さんにお礼を言って、残る必要が無いのにいつまでも残ってひそひそと私の悪口を言う暇な同僚達にも頭を下げて退社する。
「君たち、残業しないならさっさと帰りなさい。手伝ってくれる人だけ残りなさい」と部長の注意する声が聞こえた。
気にしないフリをしているけれど、全く気にしないわけではない。今日やらなければいけないことはきっちり終わらせた。残業する理由など無い。会社より家族を大切にして何が悪いのか。苛立ちを募らせながら、ちょうどやってきた電車に飛び乗る。
定時退社が悪だという風潮を未だに持っている人間の気持ちは理解できないし、する必要もないと思う。私は家族のために仕事をしている。だから、仕事のために家族を後回しには出来ない。したくない。一番理解し難いのは『同性と結婚するなんて勿体ない』だ。未だにそんなことを言う人間がいることが信じられない。
あぁもう。そんなことより早く愛華に会いたい。あの可愛い笑顔に癒されたい。
電車を降りて、早足で家へ向かう。
「ただいま」
玄関を開けても、今日はいつもの明るい「お帰り」はなかった。愛華のものでも、私のものでも、海菜のものでもない小さな靴がある。希空ちゃんの靴だ。心配して来てくれているだろうとは思っていたが、とっくに帰っていると思った。他に靴はない。残っているのは希空ちゃんだけのようだ。
リビングに向かうと、嗚咽が聞こえてきた。そっと開けると、泣き噦る愛華を抱きしめて慰めている希空ちゃんと目が合う。彼女も涙と鼻水で酷い顔になっている。
「どうしたの?」
「……愛華に聞いてください。ボクは、帰ります」
「希空……」
「大丈夫。ボクは君を嫌いになったりはしないよ。……また明日ね、マナ」
ぺこりと頭を下げて、顔を服の袖で拭いながら、希空ちゃんは去っていった。
「愛華。どうしたの?」
問いかけてみる。愛華は何も答えずに俯いてしまった。
「……おいで、愛華」
少し震える小さな身体を抱き寄せ、もう一度同じ質問を投げかけると、ぽつりぽつりと語り始めた。希空ちゃんに恋心を告白されて、それが怖くて仕方なかったと。それを怖いと感じた自分も嫌だったと。自分がそこで希空ちゃんをフってしまえば、希空ちゃんが自分以外の誰かと付き合うことになるかもしれない。それも嫌で、何もかも嫌だと思ってしまうわがままな自分も嫌だったと。
そして、そんな自分を責めるように、父親の言葉が次々と蘇って、パニックになってしまったと。
震える声で、全て話してくれた。
「……そうなのね」
「……希空、ドキドキしてた。私を抱きしめて、ドキドキしてたの。それも、怖かった。だって、今までは全然、ドキドキしてなかったんだよ。いつも抱きついてくるけど、全然ドキドキしてなかったんだよ。なんで……告白した途端に……なんで……なんで、私を好きになってしまったの?私なんかを……」
「私なんかじゃないわ。きっと、あなただから好きになったのよ」
「なんで。なんで?私は、私は人殺しだよ?なんで?」
「愛華。あなたは誰も殺してない」
「私はお母さんを殺した」
「殺してない」
「殺したよ!私が生まれたからお母さんが死んだ!お父さんが言ってた!私は悪魔だって!悪魔なんだよ私は!」
泣き叫ぶ彼女をきつく抱きしめる。違うといつも伝えている。彼女も分かっているはずだ。
「愛華。駄目よ。自分を呪っちゃ駄目。駄目よ。愛華」
「百合香さんと家族になったのだって、お母さんが死んだからだよ。お母さんが死ななかったら百合香さん達とは出会うこともなかった」
「それはそうかもしれない。けど、そんなの結果論よ」
「私達は本当の家族じゃ——「やめて!それ以上は言わないで!」
思わず怒鳴って止めてしまった。愛華はぴたりと止まり、腕の中で震えながら「ごめんなさい」と震える声で壊れたレコードのように謝罪を繰り返し始める。
「ごめ……んなさい……私酷いこと言った……」
「私こそ、怒鳴ってごめんなさい。怖がらないで。大丈夫だから」
「殴らないで……」
「暴力振るったりしない。大丈夫。大丈夫よ」
大丈夫だと何度も声をかける。彼女の震えが止まるまで、何度も。だけど、謝罪も震えも止まらない。
「愛華……大丈夫だから……」
「私、酷いこと言った……最低だ……私は最低だ……」
「愛華……話を聞いて……」
「私なんて……私なんて生まれなければ……」
「っ……愛華……そんなこと言わないで……お願い……」
言葉が届かない。ただ、抱きしめてやることしか出来ない自分が歯痒くて仕方ない。こんな時、海菜ならどうするのだろう。なんて声を掛けるのだろう。どうしたら良いのだろう。
気付けば、彼女に電話をかけていた。
「ごめんなさい海菜……仕事中に……私……」
彼女は電話に出るなり、何も聞かずに「分かった。すぐ行く」とだけ言って切った。そして数十分もしないうちに、息を切らしながら帰ってきた。ぶつぶつと呪いの言葉を吐き続ける愛華と、どうしたら良いかわからずに疲弊する私の頭をぽんぽんと撫でて「助けを求めてくれてありがとう」と言ってから台所に入って行った。
「君のリクエストはうどんだったよね。何うどんがいい?釜玉でいい?」
「……お任せする……」
「じゃ、二人とも釜玉ね」
静かな部屋に、トトトト……と、包丁が奏でる軽快なリズムが響く。愛華の震えもいつの間にか止まっていた。
「海菜さん……?なんで居るの……?」
「ハニーからSOSがあったから」
「お仕事は……?」
「問題無いよ。仕事は私がいなくてもまわるから。家族より大事な仕事なんてないよ。……よし、出来た。さぁ二人とも、おいで」
「……愛華、ご飯食べましょう。あれだけ泣き叫んだからお腹空いているでしょう?」
「……」
答えない愛華の代わりに、ぎゅう〜……と、私のお腹が返事をした。
「……お腹空いてるのは百合香さんの方じゃん」
「……そうみたいね」
「……ふふ」
ようやく笑ったことにほっとしたのも束の間、離れようとすると、行かないでと縋りつかれてしまった。
「マナ、おいで」
海菜が私から愛華を引き剥がし、抱きしめる。愛華も甘えるように彼女にしがみついた。
「よしよし。いいこ」
海菜が愛華をあやしている隙に、テーブルの前に座って出来立てのうどんを啜る。
会社でのこと、愛華のこと、いろんな想いが込み上げてきて思わず箸を止めて泣いてしまう。
泣きながら食べ進めていると、隣に愛華が座った。そして、彼女も泣きながらうどんを啜り始めた。
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