6話:変わるもの、変わらないもの

「ん…」


 午前6時。いつもなら起きる時間だが、隣で眠る愛華にしがみつかれて動けない。

 起こさないように、背中に回された腕を外してベッドを出て布団をかけ直し、部屋を出る。


 リビングの電気をつけ、コーヒーを淹れる。

 テレビを付けると、高校生時代の同級生の歌声が聴こえてきた。彼女の歌う曲が、朝の情報番組の4月からのオープニング曲に起用されたらしい。


 当時彼女が組んでいたバンドは卒業と共に解散したけれど、ボーカルの彼女と、ベース担当だった同級生は音楽の道へ進んだと聞いている。ベース担当だった子は作曲家として活動している。彼女達の先輩バンドだったクロッカスと、同級生だったデルタという三人組バンドは当時のメンバーのままプロデビューしている。

 デルタの三人のうち、ドラムの雛子ちゃん以外の二人とは高校時代ほとんど関わりは無かったが、同窓会をきっかけに話すようになった。


 当時の私達—というか妻—は有名人だった。自身のセクシャリティを公言しているセクシャルマイノリティの当事者は当時はまだ珍しかった。

 今ではどの学校でも制服はユニセックスなデザインになっていて、かつ、自身の性別関係なくスカートかズボンかを選べるのだけど、私が学生だった頃ははまだ、男子はズボン、女子はスカートという学校がほとんどだった。

 私が通っていた学校は当時にしてはまだ珍しく男女関係なくスカートかズボンか選べたのだけど、あくまでも『LGBTに対する配慮』という名目で導入されていた。

 そのせいか『LGBTじゃないならちゃんと自分の性別に合わせて制服を着なさい』と言う先生や、スカートを穿いている男子生徒やズボンを穿いている女子生徒—ここでいう男女は戸籍上の性別のこと—に対して『お前LGBTなの?』と揶揄う生徒、『LGBTだと勘違いされるからやめなさい』と子供が自身の望む制服で登校することを拒む親や、勘違いされることを恐れて結局自分の望む制服を着れなかった生徒もたくさん居た。

 私の母も最初はそうだった。『ならスカートを選ぶはず』と思い込み、私にスカートを勧めた。


 あれから14年。時代はだいぶ良い方向に変わったけれど、差別がゼロになったわけではない。

 国内で初めて同性カップルが里親になったというニュースが流れた時、ネットには『引き取られた子供が可哀想』というコメントが書き込みが少なくなかった。愛華を引き取る話を仲の良かった同僚に話した時、似たようなことを言われた。『子供がいじめられるかもしれないよ』とか『それはエゴじゃない?』とか。

 母にも同じことを言われたが、父と兄が『それはいじめる側の問題であって、そんなことでいじめが発生しないように教育するのが僕ら大人の役割だ』ときちんと反論して諭してくれて、母もそれを聞いて素直に自分の失言を認めた。ちなみに兄は今、小学校の教師をしている。故にいじめ問題には人一倍敏感だ。


 確かに、愛華は最初、学校に上手く馴染めなかった。

 けれど、翼ちゃんと希空ちゃんという女の子二人が彼女を庇ってくれて、少しずつ、彼女は学校に馴染んでいった。

 二人が居なかったらどうなっていたかは分からないけれど、愛華はいつも言ってくれる。『私は二人の子供になれて幸せだよ』と。様子を見に来てくれた施設職員の里中さんも『お二人に任せて良かったです』と言ってくれた。

 愛華の『幸せ』と言う言葉も、里中さんの『任せて良かった』という言葉も、私達に気を使って出た言葉ではなく本心だと信じている。


「百合香さんおはよぉ…」


 午前7時前。愛華が起きてきた。

 コーヒーを飲み干して朝食の準備に取り掛かる。


「…ねぇ百合香さん」


「ん?なぁに」


「その…せ…生理…って…いつ始まった?」


 言いにくそうにもじもじしながら言う愛華。彼女はもう中学生だが、生理がきたという報告はまだ聞いていない。一応、生理用品は持たせてはいるが。


「…いつだったかしら…中学入る少し前くらいだった気がする」


「…そっか」


 不安そうな顔をする愛華。


「あ、あのね…周りは…もうみんな始まってるのに…私はまだ来ないんだけど…大丈夫かな…」


「まだ大丈夫よ。16歳になってもこなかったら病院で診てもらったほうがいいらしいけど、あなたはまだ12歳でしょう?」


「…今年で13歳」


「そうね。中学を卒業して、高校生になってもこなかったら病院行きましょう。それまでは心配しなくても大丈夫よ」


「…うん」


「…不安よね。おいで」


 一旦火を止めて、愛華を呼び寄せて抱きしめる。


「私も最初は不安だったわ。いつくるんだろうって」


「急にきたの?」


「そうね。今思えば前兆はあったかもしれないけれど、当時は知識も無かったから…。何か身体のことで変化があったら相談してね」


「…あ、あの…多分、おりもの…みたいなやつは…たまに…ある…いつからかは…ちょっと忘れちゃったけど…」


「じゃあもうそろそろかもしれないわね」


 私の初経の時は母が赤飯を炊いてくれた。しかし、正直不快だった。

 大人の女性に近づいた喜びなんて一切なく、それよりも不安が大きかった。女の子であることが——母から押し付けられる女の子らしさが——嫌だったからというのもあったかもしれない。だから、愛華に初経がきてもわざわざ祝う気はない。祝うよりも不安に寄り添ってやるべきだと、私は思う。


「学校で急にきたらどうしたらいい?」


「とりあえず、誰かに相談しましょう。一番相談に乗ってくれそうなのは保健室の先生だと思うわ。言いにくかったら友達でもいいと思う」


「…百合香さんは今も生理きてる?」


「えぇ。毎月。今年で30だからもう20年くらいね。あと20年くらいはくるんじゃないかしら」


「うぇぇ…嫌じゃない?」


「そうね…でももう慣れてしまったから」


「うー…生理痛って、どのくらい痛い?」


「それは個人差があるけど…私は症状が軽い方だと思うからなんとも言えないわね。けど、痛くて耐えられない時は痛みを和らげるお薬もあるから。我慢せずに言ってね」


「…血が…出るんだよね…」


「怖い?」


 こくりと彼女は頷く。初めて生理がくる前の不安なんてもう忘れてしまったけれど、私も多分こんな気持ちだったのだろう。


「…大丈夫よ。最初はびっくりすると思うけど、病気じゃないから」


「…うん。分かってる。…ありがとう」


「…えぇ。さ、朝ご飯作るから座って待っててくれる?」


「手伝う」


「ふふ。ありがとう」





「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 愛華を送り出してから、着替えてメイクをしていると、足音が聞こえてきた。鏡の縁から妻がひょっこりと顔を覗かせる。鏡越しに目が合うと「おはよう」と口をぱくぱくさせて笑う。


「おはよう。愛華はもう行ったわよ」


「間に合わなかったかー…」


「寝なくていいの?まだ8時前よ」


「目が覚めちゃったからお見送りだけしようかと思って」


「ありがとう。…見送ったらちゃんと寝なさいね」


「はーい。…あ、口紅塗るの待って」


 何をしたいのか察し、手を止めて彼女の元へ行き、唇を重ねる。


「…満足?」


 問うと彼女はふっと笑い「もう一回」と言って唇を重ねた。


「…ふふ。ごちそうさま」


「お粗末様でした。…ねぇ海菜」


「ん?」


「…マナが、生理のことでちょっと悩んでるみたいなの。何かあったら相談に乗ってあげてね」


「あー…そっか、中学生になってもまだきてないと不安だよなぁ…」


「あなたはいつきたの?」


「中二の秋頃かな」


「遅いのね。早い方だと思ってた」


 婦婦とはいえ、今までこういう話はしたことがなかった。娘ができなかったら一生話題にならなかっただろう。


「私の場合はこのまま一生こないんじゃないかって期待してたから、きた時はショックで学校休んだよ」


「そんなに?」


「そんなにだよ。まぁ、ちょうど色々あった時期だったしね。ついでに、その日に40度近い熱が出て…インフルで休み延長してさぁ…いやぁ…死ぬかと思った」


「それは…大変だったわね…」


「うん。ほんと、大変だったよ」


「…お赤飯は炊いた?」


「いや、うちはやってない。母さんがそれやられて嫌だったらしくて。私も嫌だし」


「そう。…うちは炊いてくれたわ。けど…気持ち悪かった」


「…だよね。まぁ、文化を辿れば良いことなんだけどね。まだ医療が発達してなくて、疫病とかで亡くなる子供が多い中、無事に大人になれたねおめでとうって意味があるから。けど、今はもう必要のない文化だと思うな。当人からしたら不安の方が大きいだろうし…そういう文化があったんだよって説明しながらお祝いするならまだしも…説明も無しにお祝いされてもね」


「…そういう意味があったのね」


 母からは聞いたことが無い。説明を受けていたら少しは違った気持ちで受け止められていたかもしれない。


「ありがとう。そろそろ行くわね」


「うん。…今日は定時に帰ってきてね。水曜日だから」


「…えぇ。分かってるわ。じゃあ、行ってくるわね」


「うん。行ってらっしゃい」


「おやすみなさい。海菜」


「ふふ。おやすみ。また後でね」


 彼女の職場は水曜日が定休日だ。水曜日の夜は週に一度の二人だけの夜。それはお互いに社会人になった頃からずっと変わらない。愛華が家にやってきてからもずっと。

 きっと、この先もずっと。

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