28話:もう二度と
翌日。『彼に親に会って欲しいとメッセージを送るから見守っていてほしい』と翼に言われ、見守る。送ったのは朝10時。すぐに返信が来た。『なんで?』の一言。『親に信じてほしいから。悪い大人じゃないって。証明したい』と、翼が送り返すと『親の言うことなんて放っておきなよ』と返ってきた。それを見て翼はショックを受けたような顔をする。溢れた涙を拭い、震えた手で続けた。
『お願い』『私はまーくんを信じたいから言ってるの』『私のこと好きならこれくらいしてくれるよね?』
途切れ途切れに綴ったメッセージに返ってきたのは『そういうの重いよ』の一言。翼はスマホを投げ捨てるように床に叩きつけ、膝を抱えて縮こまってしまった。拾い上げたスマホには『逆になんでそんな急に俺を疑うようなこと言うの』『俺は翼が好きだよ』『愛してる』『疑うなんて酷い』『ねぇ』『誰に何を言われたの?』『俺と親どっちが大事?』『そういうめんどくさいこと言われたら嫌いになるよ』『別れたいの?』『別れたくないでしょ?『俺を信じて』『俺のこと好きなんだろ』『愛してるなら普通疑わないよ』と途切れ途切れにメッセージが送られてくる。それを見て希空が顔をしかめた。
「……翼、これ見ても彼のこと信じても大丈夫だと思う?」
「やだ……見たくない……」
「ボクは見た方が良いと思う。目を覚ますためにも。彼は君のことを大切になんて——「やめてよ!!」
希空が突きつけたスマホを、翼ははたき落とす。たまたま近くにあったクッションが衝撃を吸収した。
「……ごめん。けど……ボクは、君のこと、大事な親友だと思ってる。こんなこと言うやつに君のこと任せたくないよ。……翼、目を覚まして」
もう一度、希空は翼にスマホを見せる。翼は恐る恐るその画面を見て、そして静かにクッションの上に置いて、膝に顔を埋めた。そして嗚咽を漏らしながら「私、馬鹿みたい」ぽつりと呟いた。私も希空もかける言葉が見当たらなくなる。
沈黙を、翼のスマホの着信音が破る。相手は"まーくん"と表示されている。
「……出たくない」
そのまま放置していると、一旦切れた。しかし、すぐに再びかかってくる。出るまでかけてくるつもりだろう。
「ボク出ようか?」
「……大人に出てもらった方が良いんじゃないかな。私、海菜さん起こしてくるよ」
起こすのは申し訳ない気持ちはあるが、今すぐに頼れる大人は海菜さんだけだ。寝室へ行くと、丁度起き上がった海菜さんと目があった。
「……おはよう。朝から穏やかじゃない顔だね」
「翼がね、彼氏に、親に会わせたいって連絡したんだ」
「そうか。私の言うこと聞いてくれたんだね」
「うん……けど、断られて……『別れたくないならそんなこと言うな』とか、『愛しているなら普通疑わない』とか、脅し文句みたいなメッセージが来て……」
「なるほど……」
「……無条件で信じろって逆ギレしてくるのはやっぱり、やましいことがある証拠だと思う」
「うん。そうだね。私もそう思う。翼ちゃんは?どう判断したのかな」
「翼、それ見てショック受けて……電話かかって来てるんだけど、出たくないって」
「……そっか。顔洗ったら行くから、まってて」
「うん」
部屋に戻る。部屋には翼のスマホの着信音が鳴り響いており、翼は膝を抱えて嗚咽を漏らしながら震えていた。そんな彼女の背中を希空がさすっている。
「お待たせ」
数分もしないうちに海菜さんがやってきた。寝癖もばっちり直っていて、パジャマ姿じゃなくなっている。
「翼ちゃん、マナから話は聞いた。私が代わりに電話出るよ。良い?」
「……はい……」
「父子家庭って話はした?」
「えっ……は、はい……しました……」
「じゃあ、姉って設定で出るね。それから……もしかしたら私から彼に別れ話を切り出しちゃうかもしれないけど、大丈夫かな」
「私……」
「……うん」
「海菜さんの話聞いて、それで、彼のこと信じたくて、勇気を出して連絡したんです」
「うん。偉いね。よく頑張った」
「けど、返事見たら……彼のこと気持ち悪く思えてきて……」
「……うん」
「好きだったんです。ほんとに。あんなに好きだったのに。今は怖いって気持ちしか湧いてこない……信じたかった。だけど、無条件で信じるなんて……無理です……」
「……そっか。どうしたい?」
「……もう……良いです……別れた方がいい人かもしれないってことは……分かりました。目が覚めました。……別れたい……です。でももう、話すのも怖くて……」
「……分かった。じゃあ私が代わりに話つけてあげる。もしもし。はじめまして。私、翼の姉です」
どことなく涼さんに似た声で電話を取る海菜さん。どこから出しているのだろう。
「翼からあなたのことは聞いていますよ。22歳、大学生。優しくて素敵な彼氏だそうですね」
にこにこと話す海菜さんだが、その目は一切笑っていない。
「ところで、翼はつい数ヶ月前まで小学生だったのはご存知ですか?えぇ。純愛だと言い張るなら証明していただけないでしょうか。でないと、私もあなたを警察に突き出さざるを得ないんですよ。あなたも大人なんですから、未成年に軽率に手を出してはいけないことくらいお分かりでしょう?あ゛?ふざけるな?ふざけてるのはどっちですか?うちの可愛い妹をたぶらかしておいて。警察行きますか?付き添いますよ?脅してなんかいないですよ。私は大人として、当然のことをしているだけです」
早口で捲し立てる。口調はいつも通りで声のトーンは静かだが、相当怒っているのが分かる。笑顔も消えている。こんな海菜さん初めて見たかもしれない。
「大丈夫だよ。翼。おいで」
震えて泣き噦る翼を抱き寄せる。信じた人に裏切られる辛さはよく分かる。私も以前、優しくしてくれた同級生の女の子達が陰で『もうあの子と遊ぶのやめよう』『けど構ってあげないと先生に叱られるよ』『ひいきってやつだよね』『仕方ないよ。あの子、可哀想だもん。優しくしてあげないと』と会話しているのを聞いてしまった時はショックだった。だから希空のことも最初は信用出来なかった。
「無条件で信じられるわけないじゃないですか。翼はまだ子供で、あなたは大人です。少年少女の恋に対する憧れを利用して悪いことをする大人なんて世の中にはごまんといる。大人同士なら十年の歳の差なんて些細かもしれませんが、中学一年生と大学生となるとそうは言えないんですよ。過保護?いいえ、私は大人として、子供を守ろうとしているだけですよ」
丁寧な口調で話していたかと思えば、ついに堪忍袋の尾が切れたのか「いい加減にしろよ」と低いトーンで静かに言い放った。空気がピリつく。
「傷つけて、間違った価値観植え付けて洗脳しようとして、どこが純愛なんだよ。は?翼と話がしたい?スピーカーにしてもいいならどうぞ。私も聞かせてもらいます。当たり前でしょう。何度も言いますが、私達大人には子供を守る義務があるんですよ。あなたみたいな子供の恋心を利用してたぶらかすクソみたいな大人から。……クソじゃないってんなら証明しろって言ってんだよ。それが出来ないなら二度と妹に近づくな」
海菜さんの口調はいつも優しくて柔らかい。私が何か悪いことをしてしまった時もそれは変わらない。語気が強くなるほど怒っている海菜さんを見たのは、私も初めてだった。
「……ごめん。翼ちゃん。ちょっとカッとなっちゃった。けど……別れてくれるって。もう会わないって」
電話を終えて、海菜さんは翼にスマホを返そうとする。しかし、翼は受け取ろうとせずに静かに首を振った。
「……今日はお家に帰れそう?夏休みだし、別に何日でもお泊まりして良いよ。涼ちゃんには私から話しておくからさ」
さっきまでの剣幕は嘘のように優しい声で海菜さんは翼に話しかける。
「……帰ります」
「そっか。偉いね。でもせっかくだし、お昼だけでも食べていきなよ。何かリクエストはある?」
「えっ……と……」
「食欲ない?」
海菜さんの問いかけを、黙ってしまう翼の代わりに彼女の腹の音が否定する。それを聞いて海菜さんがくすくすと笑うと、翼は少し恥ずかしそうに「お腹は空いてます」と答えた。
「ふふ。じゃあ、私決めちゃうね。そうだなぁ……オムライスでいい?」
翼は静かに頷く。オムライスといえば、翼の好物だ。涼さんから聞いていたのだろうか。
「はぁい。希空ちゃんも食べてく?」
「えっ、いいんですか?」
「いいよ。みんなで食べる方が美味しいもんね」
「じゃあ、ごちそうになります」
「ちゃんと家に連絡しておくんだよ」
「はーい」
「お母さん、手伝うよ」
「ん。ありがとう。じゃあ、とりあえずスープ作ろうか。野菜出してくださーい」
「はぁい。二人は席について待っててね」
冷蔵庫から玉ねぎ、にんじん、キャベツ、ブロッコリー、そして鶏ひき肉を取り出し、お湯を沸かす。
「ブロッコリーお願いしようかな。他は私がやるね」
「うん」
ブロッコリーは茎と小房に分け、それぞれ細かくして別々のザルへ。茎は捨てる家庭がほとんどらしいが、うちではよっぽど傷んでない限りは使っている。肉巻きにしたり、スープに入れたり。
慣れない手つきで作業している間に、海菜さんは手早く他の野菜を細かく切り分けていく。私がブロッコリー一つの下ごしらえをしているうちに、にんじんと玉ねぎとキャベツの下ごしらえを終えてしまった。私も慣れればあれくらい早くできるようになるのだろうか。
「よし、スープはこのまま愛華にお願いしようかな。私はその間にオムライスを作ろう」
「うん」
ブロッコリーの小房を下茹でしてからザルにあげ、ブロッコリーを茹でるために使った鍋を一度洗ってから、そこに水を入れ、角切りにした玉ねぎとにんじんを入れて火にかける。
その間に鶏ひき肉を塩と胡椒で味付けして混ぜてタネを作る。
スープが沸いたら少し煮込んでから、角切りにしたブロッコリーの芯を入れ、ひき肉で作ったタネを、ディッシャーで掬って落としていく。綺麗に丸まった肉団子が浮かんでくる。この作業はちょっと楽しい。
後はコンソメで味付けをして、キャベツを入れて、塩で味を整えて弱火で少し煮込むだけ。
「後は私やるから、席ついてていいよ」
「はぁい」
火をつけっぱなしにして席に戻る。
「……海菜さんって、カッコいいね」
台所に立つ海菜さんを見つめて、ぼそっと翼が呟いた。
「……既婚者ですけど。マナのお母さんですけど」
「そ、そういう意味じゃないよ!大体……失恋した……ばっかだし……」
「こんな言い方あれだけど、何かある前に別れられて良かったと思うよ。ボクは。はっきり言うけど、この間まで小学生だった他人の女の子に対して愛してるとか言っちゃう大人ってちょっとキモいと思う」
「う……」
「大体さ、ハンカチ拾ってあげたところから始まったってのが怪しすぎるんだよ。わざと落として拾わせるって、よくあるナンパの手口らしいよ」
容赦なくたたみかける希空。今までは翼に気を使って言えなかったのだろう。私も言えなかった。言ったって翼の心にはきっと届かなかっただろう。
私は恋をしたことはない。だけど、愛されたいという気持ちの厄介さはよく理解している。どれだけ酷いことをされたって、ほんの少しの優しい思い出が、理不尽に対する怒りを塗り替えて、冷静な判断ができなくなってしまうのだ。暴言や暴力の原因は自分にあり、自分が間違っているから正そうとしてくれているのだと思い込まされてしまう。
あのままだったら翼はきっと、昔の私のように——
「マナ、オムライス出来たよ。食べよう」
海菜さんの優しい声が、私を現実に引き戻す。目の前には、ふわふわのオムレツが乗ったチキンライスが置かれていた。
「ボーっとしてると、私が卵開いちゃいますよー」
「!だ、駄目!自分でやる!」
「ふふ。はぁい。ナイフどうぞ」
ナイフを受け取り、自分の席の前に置かれたオムレツの真ん中にナイフを入れて割り、左右に分ける。この瞬間が、私は好きなのだ。ご飯を包んだふわふわの卵を見て希空と翼も目を輝かせた。
「やってみる?」
「はい」
「ボクも」
「はぁい。順番ね〜。翼ちゃんからどうぞ」
「えっと……こう……?」
海菜さんからナイフを渡されたが、持ち方が分からずに首を傾げる翼。すると海菜さんは席を立ち上がり、翼の後ろに回り込んで手を重ねた。びくりと翼が跳ね上がる。
「こうやって……スーッと。ほら切れた」
海菜さんはそのまま、翼の手を操作してナイフを動かすが、切れた様子を翼は見ておらず、心ここにあらずといった感じだ。
それに気づいた海菜さんははっとして、翼から離れる。
「おっと失礼。ごめんね。近かったね」
「い、いえ……アリガトウゴザイマス……」
「……女たらし」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ愛華。はい、次希空ちゃんの番ね。ナイフの持ち方分かる?」
「こうですよね?」
「そう。正解。そのままスッと」
「うわっ!すげぇ!ふわとろオムライスだ!」
「ふふ。ケチャップは好きにかけてね」
「おーい、翼ー。戻ってこーい。食べるないとボクが食べちゃうぞー」
翼はまだ固まってしまっている。オムライスにケチャップをかけながら海菜さんを睨む。彼女は気まずそうに目を逸らした。
「ごちそうさまでした〜オムライス美味しかったです!」
「お世話になりました」
「ふふ。またいつでもおいで」
昼食を終えて、希空と二人で翼を家まで送る。
「……海菜さんさ、学生時代めちゃくちゃモテたんだろうね」
「今でもモテてるよ」
「翼は惚れっぽいなぁ……」
「う、うるさいな……。……けど、既婚者じゃなかったら……確実に惚れてた」
「いや、既に惚れてるでしょ」
「う……あんなの惚れないわけないでしょ!」
「うわっ、開き直った」
「……彼氏の件は、大丈夫?吹っ切れそう?」
「……うん。もう大丈夫」
「本当に?」
希空に問われて、翼は答えずに俯き、ぴたりと足を止めた。
「……ごめん。嘘ついた」
「……まだお昼だし、どこか遊びに行こうか」
「涼さんとお父さんにお説教されてからね」
「……ありがとう。二人とも。……お説教されてくる。待ってて」
「おう。こっ酷く叱られてこい」
ふーと息を吐き、玄関のドアを開ける翼。ただいまと震える声と共に中へ入る。家の前で待っていると、涼さんの「馬鹿!」という叫び声が家の中から聞こえてきた。しばらくして、翼がとぼとぼと出てくる。
「……お待たせ」
「お疲れさん。どこ行く?翼の行きたいところで良いよ」
「……甘いもの食べたいな」
「さっき食べたじゃん」
「デザートは別腹でしょ」
「ちょっとお散歩してからが良いな」
「とりあえずボク、お財布取ってくる」
希空が翼の隣の家に入っていき、翼と二人きりになる。
「マナ」
「ん」
「……ありがとう。ごめんね」
「……うん。何事もなくて良かった。あと……私ね、ちょっと、寂しかったんだ。彼氏が出来てから君はそっちばかりで……私達とは、あんまり遊んでくれなくなってたでしょう?」
「あぁ……ごめん」
「……うん。寂しかった」
「ごめんね」
「ねぇ、翼」
「何?」
もう二度と、恋人なんて作らないでね。
出かけた言葉に、自分でも驚いてしまう。
「……マナ?」
「……ごめん。なんだろう。何言おうとしたか忘れちゃった」
「なにそれ。歳かよ。まだ若いのに」
翼が笑う。私も笑って誤魔化す。気づかれたくない。こんな醜い
『人間なんてみんなどこかしら酷いもんだから。その自分自身の醜い部分と上手く付き合っていくのが大人になるってことだと思うよ』
海菜さんの言葉が蘇る。私はまだ、こんな醜い私を受け入れることが出来ない。
私まだ、大人になれない。
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