44話:私は——

「全くもう……」


 ようやく彼女は仕事に行った。愛華から話を聞くために彼女の部屋へ向かう。ノックをすると、自ら開けて、私に抱きついてきた。


「さっきまで……寝てたの……そしたら……怖い夢見て……」


「いつもの夢?」


「違う……私が……死んで……お父さんが私を美愛って呼ぶの……愛華は死んだんだって、お父さんが言うの……美愛の代わりに死んだって……お父さんの中では、お母さんじゃなくて、私が、死んだことに、なって……昔の夢なの……ずっと忘れてた昔の……」


 人は、あまりにも辛い経験をすると、その記憶が無意識下に封印されると聞いたことがある。恐らく愛華の中にもそういう抑圧された記憶があり、なんらかの影響で蘇ってしまったのだろう。


「百合香さん、わた、私は、愛華だよね?」


「ええ。そうよ。あなたは愛華」


 美愛というのは愛華の母親の名前だ。愛華が生まれると同時に亡くなったと聞いている。父親はその事実が受け入れられなかったのだろう。

 だからといって、幼い愛華を人殺し呼ばわりしたことや暴力を振るったことは許されない。父親と離れて五年以上経った今でも、彼女の心の傷は癒えない。それほどまでに深い傷を負わせた罪は重い。

 今彼がどこで何をしているのか、生きているかどうかも定かではない。だけど、出来ることなら生きていてほしい。死んで償えるなんて思わないでほしい。罪を背負いながら、寿命が来るまで一生苦しんでほしい。そう思うほどに彼が憎い。

 名前も顔も性格も知らない。もしかしたら、周りから見たら良い人だったのかもしれない。愛華の母親が亡くならなければ、良い父親になっていたのかもしれない。だけど、愛華をこんな目に合わせた人に同情なんてしたくない。出来ない。どれだけ謝られたって、私は許せない。生きていたとしても、絶対にこの子には二度と会わないでほしい。


「あなたは愛華よ。私達の可愛い娘。私達と、美愛さんの大事な娘」


「っ……私……希空に、告白されたの。それが、凄く怖くて。私が怖かったのは愛されることじゃなかったんだ。誰かの恋人になることだったんだ。お父さん、私をお母さんだと思っている時、別人みたいで……凄く優しくて……お皿割っても、怒らないくらい優しくて……それが凄く、怖くて……希空やみんなも、恋人になったら別の人間になっちゃう気がして……」


「そう……」


「で、でも、私、希空が誰かの恋人になるのが嫌なんだ……愛してるって言われて、恥ずかしかったけど、嬉しかったの。希空の気持ちに応えたいの。応えたいのに、怖くて仕方ないの」


 理由は違うが、私も海菜と付き合う前は愛華と同じだった。彼女の気持ちに応えたい。だけど怖い。だから、その障害を取り除くまで待ってほしいと頼んだ。必ず応えるからと。

 ——まぁ、結局彼女は待ってくれなかったけど。『もうこれ以上待つ必要ないでしょ?』とか言って。昔から強引だ。


「希空はまだ、このこと知らないんだ。多分、自分のせいだと思ってる。だから……話さなきゃ……」


「……そうね。けど、今日は休んだ方がいいと思う」


「けど……」


 ピンポーンと、インターフォンの音が聞こえた。時刻は七時過ぎ。こんな時間に誰だろう。


「愛華、ちょっとまってて」


 愛華を離して、来客の正体を確かめに行く。カメラに映っていたのは、見知らぬ男の子だった。見た感じ愛華とさほど変わらないくらい。愛華の友達だろうか。外に出る。


「あ、あの!俺、小桜の同級生の桜庭楓っていいます」


 愛華の日記によく出てくる名前だ。確か、前の学校で仲良くしていた男の子。


「愛華を心配して来てくれたの?」


「それもあるんすけど……あの、小森って分かりますか?小桜——娘さんと仲のいい、これくらいの小さい女子なんですけど」


「あぁ、希空ちゃんね」


「はい。来てないですか?」


「来てないわ」


「そう……っすか……」


「希空がどうしたの!?」


 希空ちゃんの名前を聞いて、愛華が慌てて飛び出して来た。


「それが……家に帰ってこないらしいんだ。坂本と別れた後、一度は帰ったんだが、荷物を置いて着替えて、散歩してくるって言って出て行ってそれっきりらしくて」


「っ……!」


 家を飛び出そうとする愛華を止める。


「待ちなさい」


「でも!心配だよ!」


「分かってる。探しに行くなとは言わないわ。私も行くから、少し待ちなさい。落ち着いて」


「……うん……」


「俺ももうちょっと探してきます。小桜、見つかったら連絡してくれ」


「……うん」


 懐中電灯を持って家を出る。一年の終わりが近づいてきて、日が落ちるのもすっかり早くなった。七時ともなれば、あたりはもう真っ暗だ。早く見つけてやらなければ。


「とりあえず、近くの公園を片っ端から当たってみましょうか」


「うん……」


 愛華と手を繋ぎ、まずは近所の公園をしらみ潰しに当たることにした。


「希空ちゃーん!居るなら返事して!」


「希空ー!」


 懐中電灯で照らしつつ、名前を呼びながら必死に探していると、土管の中から覗く人影を見つけた。目が合う。希空ちゃんだ。


「希空ちゃん!」


 近づこうとすると、彼女はそのまま土管を通って逃げていく。


「希空!待って!」


 愛華が私の手を離して彼女を追いかける。外側から回り込もうとすると


「あっ!」


 ズサーッと布が擦れる音がした。音がした方を見ると、愛華が倒れていた。咄嗟に彼女に駆け寄る。逃げようとしていた希空ちゃんも駆け寄ってきた。愛華は倒れたまま、彼女の足首を掴む。

 そして、顔はあげないまま、悲痛な声で絞り出すように言う。「お願い……逃げないで……希空は何も悪く無いから」と。


「……怖くないの?ボクのこと」


「……怖いよ。今、顔を上げることさえ、凄く怖い。逃げたいくらい、怖いよ」


 顔を上げないまま、愛華は震える声で語る。


「でも、逃げたくない。だって、希空の気持ち、嬉しかったから。本当に、嬉しかったから。嬉しかったんだよ。怖いなんて思いたくない。だけど怖い。怖くて、仕方ないの……今日、思い出したの。私のことを、お母さんの名前で呼ぶお父さんの姿を……私が恋愛感情に対して怯えてしまうのはきっと、そのせいなんだ。娘や、友人に向ける愛情とは違う、恋心の混じった愛情が、怖くて仕方ないんだ」


 ひゅう……と、愛華の呼吸音に異様な音が混じる。手を握り、声をかける。彼女は震える声で続けた。


「だけど、私は……私はね、希空のことが——」


 ぴたりと、言葉が止まった。突然、静寂が訪れる。聞こえるのは、ひゅう……ひゅう……という絞り出すような呼吸音だけ。


「愛華?」


「マナ?どうしたの?」


 彼女は答えず、俯いたまま震え、言葉はそれ以上紡がれることはなく、ただただ静かに泣きだしてしまった。まさかとは思うが……


「愛華、もしかして、声が出ないの?」


 問いかけると彼女は、嗚咽を漏らしながらこくこくと頷いた。ひゅーひゅーと、喉の底から乾いた音を漏らしながら。

 真っ先に疑ったのは、心因性失声症。ストレスが原因で声が出せなくなる病気だ。


「失声症かもしれない」


「失声症……?」


「声を失う病と書いて失声症。文字通り、声が出なくなる病気よ」


「え……」


「大丈夫。治る病気だから。人にうつることもない。安心して。愛華も、大丈夫よ。大丈夫。だからとりあえず二人とも、帰りましょう」


 愛華を抱き上げて、希空ちゃんと手を繋いで夜道を歩いていると、愛華のスマホに電話がかかってきた。画面には、桜庭くんと表示されている。色々あって、希空ちゃんが見つかったという報告を忘れていたことを思い出し、声の出ない愛華の代わりに応答する。


「もしもし。愛華の母です」


「えっ。あっ。こざ……まな——娘さんは……?」


「……大丈夫よ。心配しないで。今はちょっと話せないだけ。希空ちゃんは見つかったわ。今家に向かってる。あなたも家に帰りなさいね。他にも探すの手伝ってくれた子がいるのなら、その子たちにも連絡しておいてもらえるかしら。私は親御さんに連絡するから」


「……わかりました」


「ありがとう。よろしくね」


 電話を切り、愛華に返して、自分のスマホから希空ちゃんのお母さんに電話をかける。


「小桜です。希空ちゃん見つかったので、今、家に向かっています。……いえ。それでは」


 電話を切ってスマホをしまう。隣を歩く希空ちゃんがぽつりと「迷惑かけてごめんなさい」と泣きそうな声で呟いた。


「家族とお友達にも、ちゃんとごめんなさいするのよ」


「……はい」


 希空ちゃんを家に送り届ける。とりあえず、希空ちゃんが無事だったのは良かった。しかし、まだ愛華の問題が残っている。


「希空ちゃん、無事で良かったわね」


「……」


 彼女は黙ったまま、こくりと頷く。


「大丈夫よ。とりあえず帰って休みましょう」


 静かに泣き噦る彼女をあやしながら、自宅へと急いだ。

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