40話:色褪せない恋

 今日は愛華も学校に行った。希空ちゃんとは少し気まずそうだったが、そこはきっと、本人達の問題だ。私が干渉すべきことではない。


「行ってらっしゃい。百合香」


「行ってきます」


「あれ。何か忘れ物してない?」


「してない」


「行ってきますのちゅーは?」


「今日はしな——」


 さっさと靴を履いて逃げようと玄関のドアに手をかけると、腕を引かれて強引に家に引き戻される。そしてくるりと身体を回転させられて、流れるように唇を奪われた。


「今夜、抱くからね。楽しみにしてて」


 彼女はそう私の耳元で囁き、ちゅっ。と、耳にリップ音を残して、憎たらしい笑みを浮かべた。暴力的な色気に、心臓が握り締められる。絶対そう言われると思ったからさっさと逃げたかったのに。逃げられなかった。


「っ……!仕事に集中出来なくなるから宣言するのやめてって言ってるでしょ!」


「あはは。ごめんごめん。つい」


「もー!」


「ふふ。早く帰ってきてね。待ってるからね」


「言われなくても早く帰るわよ」


 心臓が恋を主張する。ラブラブアピール必死すぎとか好き勝手言われるが、別にアピールしているわけではない。なんなら、私よりむしろ彼女の方が私に惚れている。

「伴侶に愛されてないから嫉妬してるんですか?」と煽り返してやろうかと何度も思っているが、暇な同僚の安い喧嘩を買って喧嘩する無駄な時間のことを考えると、その時間を大好きな家族と過ごす時間に使った方が明らかに有意義だ。

 今日は水曜日。誰に何と言われようと、さっさと仕事を終わらせて定時に帰る。

 そう意気込んでいたのだが——


「三宅さん、俺、今日用事あるからこれお願いできる?」


「ごめーん。私も子供が待ってるから早く帰らないといけないの〜」


 定時になると、同僚達が次々と三宅さんに仕事を押し付け始めた。思わず、立ち上がろうと持ち上げた腰を降ろしてしまうと、彼女達は「帰らなくて良いんですか?今日、水曜日ですよ?奥さんが待ってるんじゃないですか?」と私を煽った。


「……あなた達こそ、帰らなくていいの?用事があるのでしょう?私は三宅さんを手伝ってから帰るわ」


「えっ、だ、大丈夫ですよ。悪いです」


「良いから。頼りなさい。三十分で終わらせてやるわよこんなの」


 三宅さんの机に山積みにされた資料を半分奪い取り、処理していく。暇な同僚達が何か言っているが聞こえない。聞く暇なんてない。パワパラだと主張する時間さえ惜しい。私は早く帰るのだから。愛する妻が——


『今夜、抱くからね。楽しみにしてて』


 いや、別に抱かれることを楽しみにしているわけではない。違う。そういうわけではない。断じて違う。

 彼女は夜勤で、私が帰って来る頃には仕事で居ない。帰って来る頃には私は寝ている。水曜日は唯一、彼女の仕事が休みの日なのだ。私と違って彼女は週六日で働いている。休みは店の定休日である水曜日と、その他の長期休みくらいしかない。同じ家で暮らしているといっても、ゆっくりとコミュニケーションを取れるのは一週間で一日しかないのだ。その大事な一日を邪魔されるのは本当に不快で仕方ない。

 苛立ちに身を任せて、ひたすらキーボードを叩く。


「三宅さん、こっちは終わったわ。あとどれくらい?」


「は、早っ!?」


 彼女の机にはまだ未処理の資料が山積みになっている。


「ご、ごめんなさい。こっちはまだ全然です。けどあの、先に帰って——「いい。手伝う」


 ムカつく。妻との大事な時間を邪魔されたことも。私への不満を私にぶつけずに、三宅さんにぶつけたことも。関係ない彼女を巻き込むなんて卑怯だ。


「終わったわ」


「あ、ありがとうございます」


「お疲れ様。……これ、明らかにパワハラだから。次同じことされたら我慢せずに部長に訴えなさい。……といっても、元を辿ればきっと、私のせいなのだろうけど。巻き込んでごめんなさい」


「そんな。小桜さんは何も悪くないですよ。仕事より家族を優先していると言っても、別に仕事を疎かにしてるわけじゃないですし。文句言われるようなことはしてないと思います」


「……ありがとう」


「パートナーさん、待ってるんでしょう?早く帰ってあげてください」


「ええ。ありがとう。ではみなさん、お先に失礼します」


 席を立ち上がる。暇な同僚達はぽかんとしていた。「用事があるから早く帰らなきゃいけないのでしょう」と煽ってやりたかったが、それ以上に、早く帰りたい気持ちが勝り「お疲れ様」と挨拶だけしてすれ違う。

 今日は水曜日。愛する妻の、一週間で唯一の休み。私にとって、一週間で一番大事な日。会社を出て、早足で家へ向かう。

 玄関を開けると、良い匂いが漂ってきた。足音が一つ近づいてきて、愛しい妻が「おかえり」と笑う。その笑顔を見た瞬間、溜まっていたものが爆発して、衝動的に妻に抱きつく。


「わっ……どうした?なんかあった?」


「ありまくりよ!もー!ほんとムカつく!」


 八つ当たりするのは良くないと分かっていても、叩いてしまう。彼女は痛い痛いと笑いながら私の頭を撫でた。彼女の優しさに涙が出てきた。


「……好き」


「私も好きだよ」


「……叩いてごめんなさい」


「良いよ。よっぽど嫌なことがあったんだねぇ。よしよし。とりあえずご飯にする?お風呂にする?それともわ・た「お風呂入ってくる」


 殺気を感じ、慌てて彼女を突き飛ばして、風呂へ向かう。


「じゃあ一緒に「あなたは入ったでしょ。ついてこないで」……ふふ。はぁい。じゃあ、ご飯作っておくね」


 脱衣所まで付いてきた彼女を追い出して、服を脱ぎ捨てて、洗濯機に叩き込む。湯船にはつからずにシャワーで済ませて戻ると、カウンターテーブルに食事が用意されていた。


「今夜は親子丼ですよ。温かいうちにどうぞお召し上がりください」


 食欲を唆る親子丼と味噌汁の良い香りが、彼女の優しい微笑みが、毛が逆立つほどの激しい苛立ちを一瞬にして癒していく。感極まって溢れ出た涙を拭って席につく。


「愛華はもう寝ちゃった?」


「うん。寝てる」


「……あの子、今日大丈夫だった?」


「うん。ちゃんと話し合ってきたって。早退もせずに、部活まで行って……ちょっと、頑張りすぎて疲れちゃったみたい」


「……そう」


「で?君は何をそんなに苛ついているの?」


 食事をしながら、同僚の愚痴をこぼす。彼女はシェイカーを振りながら相槌を打つ。


「なるほどねぇ。それはムカつくね」


「でしょう?」


「でも、ありがとね。いつも仕事より私を優先してくれて」


「優先すると言っても、やるべきことはちゃんとやってるわ。文句言われる筋合いなんてないはずよ」


「うん。分かるよ。君は真面目だからね。私が部活サボってデートしようって誘ったら怒るくらいに。あ、でも一回だけ君の方から誘ってくれたことがあったな」


「……覚えてないわね」


「えー。嘘だー。私は覚えてるよ」


 本当は覚えている。彼女との思い出は、一つも忘れられない。だけどそれを素直に言うのは恥ずかしくて、話を逸らす。


「……ところで、何作ってるの?」


「あぁ、これ?ビトウィーン・ザ・シーツ。飲んでくれる?」


 そう言って、彼女はシェイカーの中の液体をカクテルグラスに入れて、スッと私に差し出した。スッと彼女の方に戻す。


「……ブルームーンをもらえる?」


「あら。フラれちゃったか」


「冗談よ。けど、飲まない。今日は酔いたくないから」


「酒じゃなくて私に酔いたいから?」


「うるさい。良いから、ノンアルコールのジンライムちょうだい」


「……へぇ?」


「何よ」


「いや。ふふ。なんでジンライムなの?」


「……分かるくせにいちいち聞かないで」


「ふふ。はぁい」


 沈黙が流れる。その沈黙の中にごくっと一つ、彼女の喉が鳴る音が響く。それがなんだか妙に官能的な雰囲気を作り出し、心臓が高鳴る。

 コトンと、彼女がカクテルグラスを置いた。


「先に部屋行くね。待ってるから」


「……待って。私ももう行くから」


 グラスの中のジンライムを一気に飲み干して、彼女の後を追いかけて寝室へ。扉が閉まり、一つの部屋に二人きりになる。


「さあ、おいで。百合香。朝の宣言通り、今日は心ゆくまで可愛がってあげる」


「……うん」


 差し出された手を取り、ベッドに入る。


「……期待してた?」


 私の身体が奏でた水音を聞いて、彼女が笑う。答えずに顔を逸らすが、戻されて唇を奪われる。


「っ……うみな……」


「……はぁ……ふふ。今日はよく頑張りました。あと二日頑張れるように、心の疲れを癒そうね」


「身体が疲れたら元も子もないから……あんまり激しくしないでね……」


「ん。大丈夫。途中で寝落ちするくらい優しくする」


 そこから言葉はほとんど交わさずに、二人だけの甘い秘密を紡ぐ。隣の部屋に漏れないように、なるべく音は立てないように静かに。


「んっ……」


「自分の指じゃなくて、私の指噛んでて」


「やだ。痕ついちゃう……」


「いいよ。噛み切っても」


「怖いこと言わないで……んぅっ……」


「ふふ。ほら、咥えなよ」


「っ……」


「良い子だね。そのまま、私が良いっていうまでちゃんと咥えてるんだよ。離したらお仕置きね」


「んぅ……っ……」


 ——付き合って十五年。結婚して五年。三年で終わるはずだった恋の寿命は、こうしてほぼ毎週更新されて、引き伸ばされている。

 離婚なんてとんでもない。彼女以上に愛せる人はこの先現れないだろうし、彼女以上に私を愛してくれる人なんてこの先現れないだろう。そう信じて疑わないまでに、私は彼女を愛している。私はきっと、死ぬまで彼女に恋をし続けると。

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