第22話 更衣

 ほととぎすが朝に鳴いた。その音が夏の到来を人に知らせる。後宮で夏を知った女官たちが、示し合わせて衣を変え、夏を迎える更衣の日がやって来たのだ。


 わたしがあおいと共に縫殿寮ぬいどのりょうに顔を出すと、女官たちが夏の装いに変えた姿を互いに披露し合っている。彼女たちがあおいに気付くとすぐにあおいの周りに寄ってきて、その圧に押し出されたわたしはやはり独りになった。


 そばで葵の鳳凰ほうおうには賛美の声が降り注いでいる一方で、わたしの鶴に掛かる声はない。手近にいる同僚の女孺にょじゅに、その着物を褒めようと近寄ると、その女はわたしに気づいて近場にある輪に加わりわたしを避けた。


女の容貌を褒める器用さなんてどうせわたしには無いから、かえって良かったのだ。


 離れていったその背中を見つめつつそんな風に考えてみたが、胸の中がチクチクとして痛いままだ。鬼に変わってから、寂しさに弱くなったらしい。


 葵の指示で、それぞれが担当する殿舎へと向かう。わたしは葵と共に本丸にある殿舎に向かっている。葵がわたしをそばに居させるのは、孤立するわたしを気にかけてくれたからだろう。


 本丸の奥殿のうち、西端にある藤殿ふじでんに行く途中でアザミと紫陽しようがいるのを見かけた。アザミが怖かったので、葵の影に隠れていると紫陽が葵に気づいて呼んだ。幸い二人はわたしに気づいていないようで、葵にわたしはこのまま藤殿に行くことを伝えて葵から離れた。葵が禁色を纏う上臈女官たちに混じって行くのを遠くに見ながら歩いていると、いつの間にか藤殿についていた。

 他の司から藤殿に来ていた女孺にあれこれと聞きながら、壁代や几帳の布を夏のものに換えていると、時間はあっという間に過ぎていく。


 朝早くから続けていた作業は昼頃に終わった。春に比べて少し強くなった日差しに焼かれてほんのりとにじむ汗を手拭いで軽く拭いていると、畳の上で腰をおろしているわたしの後ろから、「お疲れ様」と声がした。


 振り返ると、別の司に務める女孺で、ちょうど先ほど一緒に作業をしていた女性だった。

その言葉に、わたしも同じ言葉を微笑んで返すと、意外そうに目を大きくして、「噂とは違うのね」とわたしに近づいた。

「噂?」

「縫司に浅ましい娘が入ってきたって噂が広まってるよ。」


 どうやら他の司に所属する女嬬は縫司の女嬬と違って明確な敵愾心は無いみたいで、悪い噂の主がどんな人間か知りたいくらいにしか思っていないらしい。


「かわいいし、働き者だし、そんな悪い娘じゃないのにどうして嫌われているのかな。」


 後宮では、贔屓されている人間や場の空気を汲み取れない人間は嫌われる。

 わたしがアザミの指示に従って上臈じょうろう女官の歌会で恥をかいた事実は、身の程知らずの無骨な娘が、図々しく上臈じょうろう女官の歌会に立ち入って滅茶苦茶にしたと伝わっている。

 また本来は二の区画に住むべき女孺が、本丸に住んでいる。

 自分の嫌われている理由はわかっている。だが、それを言ってもどうにもならない。アザミを悪く言うようなことをすれば、もっとわたしが危うくなる。


 彼女の疑念に答えず、「ありがとう。」と言って藤殿を去った。昼餉ひるめしは何だろうかとあれこれ料理を思い浮かべながら渡り廊下を歩いていると、上臈女官が、奥殿の中央部にある貞観殿に集まっているのが見えた。

 貞観殿の外には野次馬のように女孺が群れている。

いったい何だろうかと思ってそちらへ近寄って行くと、貞観殿の部屋の前で話す紫陽の声を耳が拾った。


「百合様、部屋の外へ御出になりませんか?もう時鳥ホトトギスも鳴いております。皆百合様のことが心配で、このままではたとえ衣を替えたとて心は夏を迎えられません。」

 小宮百合。姫君の名だ。ずっと本丸に住んでいるのに、一度も見かけることが無かった。わたしのように身分の低い女孺ではその顔を拝むことが出来ないからだと思っていたが、もしかして、なにか病を患っているのだろうか。


 姫君のことが心配で、女嬬の群れの中に入った後、空隙を縫って歩き少しでもと貞観殿へ近づいた。立ち入りの許される境界のそばで、上臈女官が姫君にかけている言葉に耳を済ました。


 もしかしたら、部屋の襖の奥から姫君の声が返ってくるかもしれない。ずっと聞きたかったその声を、偶然聞けるかもしれない。期待が胸の奥で肥大化していく。そして期待は、襖の開く音と共に現実に変わった。


 紫陽やアザミや葵など貞観殿の前にいる上臈女官の瞼が一斉に開いた直後、部屋の中から一人、黒い着物を来た女が出てきた。

 闇のように黒く艶のある髪、白百合の花びらが露に濡れているように、その柔らかく綺麗な顔には涙の跡が残っている。涙をその細い指で拭いながら、そばにいる紫陽やアザミに微笑んで、「もう更衣の日が来たのね。」とさみしそうな声で言う。そばでその声を聞いた上臈女官たちは涙を誘われてほんのりと瞳を濡らした。あのアザミでさえ、その例外ではなかった。


 貞観殿に集まっている上臈女官たちは、手に持った姫君の着物を姫君にお見せしようと姫のそばに近づいていく。アザミが姫君に「お気に召したものが御座いましたら、お教えくださいまし」と言うと、「これがいいわ」と鶴の描かれた赤い着物を一着選んだ。そのまま上臈女官数人と共に貞観殿の部屋へ戻っていく。


 襖が閉じてから一時間後、再び襖が開いた。姫君の着替えが終わる間に貞観殿から離れていった女孺は一人もいない。皆がその着物姿を拝見しようとして、人数は更に増えていた。


 部屋の中から出てきた姫君は、そのまま貞観殿から女孺が集まっているところへと向かってくる。今姫君の後ろに侍っているアザミが部屋から出る時点で姫君にその姿を皆に見せてはどうかと助言するのが聞こえたから、このままこちらまで来て下さるつもりだと思う。


姫君の歩みを邪魔せぬように、わたしたちは道の中央をあけて、その両側に一列で並んだ。


 紫陽やアザミなど、禁色を纏う上臈女官が尾のように姫君の後ろに付いて行く。そのひとりひとりが絢爛な着物を纏い、花のような自然美を体現している。その先導を歩く姫君の美しさは自然を越えて神女の域に達しているように思えた。


 彼女たちが自分の前を通り過ぎていくのを女嬬たちは頭を垂れて待った。皆はその美しさに酔っていて顔が紅い。すぐそばを歩いていく姫君たちと自分を比較して恥じらっているのだろう。わたしなんて、この世界に慣れていないから特に酔った。廊下を歩いてくる姫君の足音だけで、心が震えるのだった。その姿を拝見したいのに、顔を上げる事が躊躇われた。自分がどうなってしまうのか分からなかったから。


 顔を伏したまま、わたしのいる末尾に来なさるのを今か今かと待った。軽い足音が廊下に響いて足先に伝わってくる。足先に伝わる振動が昇ってきて覚えず肩が震える。いけない。緊張しているのだろうか。怯えてるようでみっともない。ちゃんと、凜としていなければ。


 自分に言い聞かせているうちに、震えは肩から手までに広がる。それを見て気付いた。わたしが、心の奥底で、姫君から酷いことを言われるのではないかと疑っていることに。そっと顔を上げてすぐ下ろした。周りにいる女嬬たちがわたしの挙動を見て不愉快そうに顔をしかめている。

 胸の内から浮かれた歓びが消えて、刺すような恐ろしさだけが残る。震えが、酷くなった。

 姫君に見られたくない。胸の奥が苦しい。足音が近づくたび、その痛みは強く強くなっていく。


「ねえ、顔を上げて?」

姫君の声がする。自然と瞑っていた目にぎゅっと力がこもる。きっとわたしではない。しかし誰の返事も聞こえない。


「聞こえているのでしょう?」


肩に何かが触れる感触に驚いて目を開け声の方をみると、姫君がわたしの肩に手を乗せてわたしを見つめている。わたしが顔を上げたのを見て柔らかく笑う。涙の跡が赤く残っている。


「綺麗ね」


わたしも同じ事を思った。鶴の描かれた赤い着物を纏う姫君が笑ったとき、わたしはその穢れのない微笑みを結晶の中に保存しておけたらどんなに良いだろうと考えた。


 どうして姫君とわたしが同じ事を考えるのだろうと不思議で姫君の瞳を見ると、姫君の視線と交差してその瞳の奥に吸い込まれていく。わたしは姫君としばし見つめ合った。姫君が瞬きをして、絡み合っていた視線がほどけて離れた。

その後、わたしはすぐに後悔した。無遠慮に貴人の目を見つめてしまったと恐ろしくなった。


 謝ろうとして、頭を下げようとしたとき、頬に当てられた手がわたしの首の動きを妨げた。動揺したまま、わたしの頬に手で触れている姫君を見上げると、姫君はじっとわたしの目を見つめかえしてくる。似ているわと誰にも聞こえないような程小さい声で呟いた後、

「あなたの名前は?」と聞いたので、

「雲雀と申します」とこたえると、大きく目を見開いて何度かパチパチと瞬きをした。


 すぐに何かを言おうとして、しかし、姫君の背後にいるアザミから「皆が待っておりますゆえ」と急かされると、言うのを止めてアザミの方を見る。

アザミが静かに頷くのを見ると、「ええ…」と曖昧な返事を返して、もう一度わたしに横顔を向けて過ぎていく。何かを考えるような素振りをしている姫君を見つめていると、ふと思い出したように一度だけわたしを見て、「おそろいね」と艶やかに笑った。


 わたしの前を過ぎる際にアザミがわたしを見た。すぐに頭を垂れて顔を伏せ、その冷たい目から逃げた。緩んだ顔を見られてはいないだろうか。顔の熱が取れるまでこうしていよう。足音に意識を向けようとしたが、心臓の音が邪魔をする。その音を収めるために右手を胸に当てる。指先に着物の生地が当たる。そっと、優しく撫でてみる。


 温かい鶴の羽毛に触れているような気がした。

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