第38話 戦 2

 身体の血がカッッと熱くなって、抑えきれず俺は夜叉へ飛び出していた。

「ぶった切ってやるッッ」


 全力で振るった一太刀を夜叉は見もせずに避ける。すぐに二手三手と斬撃を繰り返すも掠りもしない。必ず一刀を当ててやると殺意のままに振り回していると、ついに夜叉は紫宸殿の縁側に土足をつけた。その時になってようやく清正や小十郎、その他の武者共が追いついてきた。


「早く加勢しろッ!コイツを絶対に奥へ近づけるなッ!」

「頭を冷やせ女ッッ!そんな単調な攻撃じゃ夜叉には何千回やっても当たんねえ!」

「じゃあどうするんだッッ!」


「こうすればいい」

 清正が俺を押しのけて夜叉に斬りかかった。背後からの斬撃をいなすため、夜叉が振り返った瞬間、突然夜叉の前で急激に脱力しその太刀筋を変えてみせた。夜叉は初めの軌道をかわそうと動き出していたから、一瞬で変わった太刀筋を交わすために、その上体を大きくそらしてバランスを乱した。その瞬間を小十郎が見逃さず、崩れた所へ、縦に一筋、夜叉に刀を振るう。


 避けられない流れだ。巧い。このまま勝負は決するか。

その一振りを見て、刹那にそんな事を考えた時、夜叉はゆっくりと左手を軌道の方に近づけた。親指と人差し指で輪を作り、刀が軌道を通過する瞬間、刀の側面を人差し指で弾いて軌道を変えてみせる。


 小十郎の刀は夜叉の左にずれて廊下に突き刺さる。だが、刀の刃先が夜叉の左手をかすめて、斜めに一つ、傷を残した。

夜叉の歩みは、一度止まった。


「貴様らにしては良い筋だった」

左腕の切り傷から出る赤い血を指で拭って、見つめながら呟く。

そこへ、二人はもう一度斬りかかって行く。


「だが――――」


 二人の動きに興味が失せたと言うように、視線を外し、背を向けて、また紫宸殿の方へ歩き始める。

二人の刃が夜叉の背中に触れそうになったとき、ゆらりと蜃気楼のように夜叉の像が歪んで刀は空を斬った。


「悲しいかな、人間では原理的に我を越えられない」


刀を空振った二人に回し蹴りをして吹っ飛ばすと、夜叉はもう一度歩き始めた。


 俺は夜叉へ剣を振るった。その歩を止めるために、何度も何度も斬りかかった。だが、奴は、障子を蹴破りながら部屋に上がり、床に土の汚れを付けながら、進むのを止めない。

俺が止められる時間は一瞬だけだ。

こちらが攻撃を仕掛けているのに、体力が減っていくのはこちらだけだ。

夜叉は俺を風か何かのようにいなして進んでいく。侵入を止められない。


 夜叉は視界に入るたびに人を殺そうとした。俺が庇って逃がしている内に、夜叉はさらに奥へ進んでいく。夜叉に少しでも遅れれば、進んだ先で血の海に死体が浮かんでいた。紫宸殿から、北へ北へと進んでいく夜叉の後ろ姿を追いかけながら、何度も何度も止めようと足掻いたが、止められず、遂に夜叉は北の奥殿、つまり、後宮へと足を踏み入れた。


 至る所から聞こえてくる人間の音。突如止まる夜叉の歩み。

夜叉は静かに息を吸い出した。次第、膨らんでいくその胸が、ある臨界を迎えた次の瞬間、

 血走った目をカッッと見開いた。 


 咆吼が来る。あの時俺が浴びたのより更に重い。常人が聞けば下手したら死にかねない。そんな咆吼が今に来る。


 止めなければと焦って、顎を狙い切り上げた瞬間、夜叉はその口から、生命の火を消し去ってしまいそうな程重い咆吼を放った。

殿舎が地震のように揺れ、足元がぐらつく。かち上げた剣の軌道がずれて空を斬る。しかし、問題はそれじゃない。


 その咆吼に、奴は妖術を込めやがった。

今し方城中に轟いたのは、ただの空気振動では無い。伝播したのは音波だけでは無く、生命を脅かす死の波動も広がったのだ。俺は確かに、夜叉を中心として円状に広がっていく黒い影が見えた。

 その影が俺の身体を透過していくとき、心臓が凍り付いたような冷たい感触を残している。


 皆の安否を確かめるために、周囲の気配を探り始めてから数秒後、ドタドタと、何か重い物体が、床に落ちる音が次々となった。

 それが、人間の死体が床の上に倒れ込んだ音であると、どうしてかわかった。


「みな死んだか。いや、まだ、残っている――――」

 夜叉はおぞましい笑みを浮かべて突然に駆けだした。呆然としていたせいで遠ざかっていく夜叉を止められず、奥に進むことを許してしまった。

 焦って、すぐにその背中を追いかけるが、その時にはもう遅い。夜叉は、貞観殿の前に、すでにたどり着いていた。


 俺が奴の着物の端を掴もうと手を伸ばしたとき、奴は無遠慮に襖を手で払って開け放った。

 そこには、アザミと姫君の前に立って守ろうと手を広げている椿様がいた。


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