第36話 反転
土砂降りの雨が水面に落ちれば、円形波が次々と絶え間なく生まれるように。
空中に、数多の人間が発した音の波がそこかしこで生まれ続けていた。
俺への罵声。俺への恐れ。これから死を目撃する興奮。
だが、その全ての音が、
たった一つの、馬鹿でかい音の波に掻き消された。
火薬が武器庫で破裂したのか。
突然、場の全てを掻き消すような爆音が城の外で鳴ったのである。
その音に皆唖然となって、一斉に朱雀門の方を向いたときだ。空から、微かな摩擦音が聞こえた。空を見上げると、空中に何かが浮かんでいる。太陽の陰になっているせいで真っ黒で正体が分からない。
しかしそれも数秒の間だけだった。
それが10メートルほど先に落ちた瞬間、赤い鮮血が辺りに飛び散ったのを見て、それが人であることを理解した。
「イヤッァアアアアアアアアア!」
そばに居た女が、その鮮血に濡れながら叫んだとき、それに被さるように朱雀門のほうから、
「ウォオオオオオオオオオオオオオオッッッ!」
野獣のような雄叫びが轟いた。
突然の事態に場は騒然となる。いち早く正気を取り戻したのは、斎我と小十郎である。
「小十郎ッ!」
「急いで朱雀門を塞げッッ!」
武者共が走って門に駆けていく。そのまま門を閉じて留木で鍵をする。だが意味は無かった。
先ほどのような轟音がまた聞こえた。急に太陽の光が消えて、陰が辺りに掛かった。何事かと見上げると、視界には、大門の扉と、門の側で門を押さえていた武者たちが宙に浮いているのが見えた。
扉はそのまま刑部省の屋根に突き刺さる。辺りから悲鳴が上がり、この場にいる人間は混乱の渦の中に取り残された。
「兵共は門へ急げッッ!侵入者をこの城に入れるんじゃねえッッ!」
「皆はとにかく朱雀門から離れよッッ!」
小十郎と斎我が同時に叫ぶと、直後、俺の周りにいた兵士共は朱雀門へ走り出し、混乱した野次馬の連中は蜘蛛の子を散らすように何処かへ逃げていく。
すると、まわりに大勢いた武者は数人まで減った。
今だ、今しか無い。
俺が動き出したのが早いか、武者共が刃を抜いたのが早いか、それが分からないほど同じ時点で始まった二つの運動は互いにぶつかることは無く、すり抜けてゆく。
全ての刃を避けた後、一番良い刀を持っていた武者の側頭部を拳で強く打つと倒れたので、使われない刀が不憫で仕方なく刀と鞘を奪って逃げた。追いかけて来た武者は野次馬に紛れてまいた。
俺は何よりもまず、姫様を探した。この場から逃がさないと行けない。ぐるりと周囲を見渡すと、混乱した群衆に押されてよろけているのが目に入る。すぐにそちらへ向かって、群衆の波に割って入り、所々ある空隙を縫って、姫君のそばまで行き、すぐに声を掛けた。
「大丈夫ですか!」
よろめいた姫君を後ろから手で支えると、ありがとうと俺に振り返リながら言う。俺を視界に入れると、目を一際大きく開けて、ほっと嬉しそうに微笑む。
「ひばり……」
姫君は、血で着物が汚れるというのに、構わず腕を回して、俺を抱きしめた。ギュッと抱きしめられると、先ほど殴られた箇所が圧迫されて少し痛い。
でも、幸せだった。もう、二度と会えないと思っていたから。
「逃げましょう。」
姫君を抱きかかえて駆けた。顔を赤くした姫君が下ろしてと我が儘を言うのを聞かないで、本丸へ急いだ。すぐに本丸門の前にたどり着き、閉じかかっている門の間を通って中に入る。中で姫君を下ろしたとき、背後で、再び野獣の雄叫びが上がった。
声の方へ振り返り、そして、見た。
たった一人の男が、数多の武者に斬りかかられている光景を。そして、誰一人として、その男に一太刀も与えられず、血の飛沫を上げて死んでいくさまを。
身体中の血が逆流しているのか。身体中がカッッと熱を持つのを感じた。出て行こうと歩き出したとき、門衛が門を閉じやがった。
「そこをどけ!」
俺の言葉に、門衛の二人は愚かにも刀を抜く。
「刀を下ろしなさい!この人は敵じゃないわ!」
「姫君は早く奥へ!この門もきっとすぐに――――」
言い終わる前に轟音が鳴り、本丸門に穴が開く。衝撃で倒れてきた門に二人は押しつぶされ下敷きになる。門の下から赤い血が染み出る。
悲鳴を上げる姫君を背にしたまま、頭に昇った激情を腹の底から吐き出した。
「何故お前が生きているッッッッ!夜叉ァッッ!」
夜叉は身体中から血を滴らせながら、俺を見て不敵に笑った。
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