第35話 青い空
乱暴に髪を引っ張られて立たされる。数歩歩いて一瞬よろけたら、右頬を拳で殴られた。口の中が切れて血の味がする。口から滴った血が着物について染みこんでいく。
ああ、御ババに怒られるなあ……
顔の右側がじんじんと痛むのを感じつつ、ぼんやりとそんなことを考えていた。
少しだけ立ち止まったら背中を蹴られて足が動いた。
蹴られるから歩いていたら、今度は髪を引っ張られる。痛いと言おうものなら顔を殴られ、また着物に染みが増える。
処刑台に送られているというのに、心には何も浮かんでこない。鈍い痛みで麻痺した頭の中に、ぼうっと靄がかかったように。
何もかもがどうでもいい。このまま寝てしまったら、何もかもが消えていればいい。
森羅万象はただの幻であり、きっと俺は何かが戯れに作った魂で、
それはこれから蜻蛉のように儚く散るのである。
人生に感慨などなかった。
人の世はきっと俺のような、ただそこにあったものが消えていくだけの繰り返しだ。
皆に認められようと足掻いて見たが、過ぎてしまえばただの儚い揺らぎでしかなかった。
蜃気楼のようにつかみ所のない、くだらない人生だった。
結局俺は何者にもなれなかった。
ああ、また一発くる。今度はこめかみか。
拳が風に当たる微かな音が左耳の方で聞こえて、そんなことを考えたときだった。
「雲雀を放してッッ!」
背後から、姫君の声が聞こえたのだった。
振り返ると、姫君が俺に手を伸ばしていた。その手は袖に届き、俺を向こうへと引っ張っていく。だが、そちらの方へ俺の身体が動いたのを見逃さないで、清正は俺を姫君から遠ざけるように強く押した。その後、武者が姫君をわたしに近づけまいと壁になった。
離れていく姫君の泣きそうな顔を見て、こんなにも胸の奥が痛いのは、前世でも貴女とこんな別れ方をしたからだろうか。
何故こんな終わり方になる。どうして、俺は死んでしまうんだ。
よりにもよって、貴女の前で――――
自分の生が失われていく悲しみに心が濡れ、
「ひばり、ひばりっ」と何度も俺の名を呼ぶ声の悲痛さに、生きているという事を思い出した。
「出しゃばるなッッ!百合ッッ!」
今まで胡座をかいて座っていた小宮斎我が立ち上がって壇上から降りてくる。すぐそこで、姫君と小宮斎我が向かい合った。
「今すぐここから出て行けッ」
「嫌よ!何もかも間違ってるわ!」
「これは命令だ!子供がこの場所に立ち入るなッッ!」
「雲雀の処遇を改めてくださいッッ!」
「俺に楯突くかッッ!」
激怒した二人がぶつかり合う傍で皆は息を飲んで行く末をじっと見ている。一瞬の静寂が訪れ、次に二人が何を言うのか待ってると、先に口を開いたのは小宮斎我だった。
「百合をこの場から摘まみ出せ!」
手近にいた武士にそう怒鳴りつける。周りにいた武士共は斎我の命令に従い、姫君の腕を掴もうとした。しかし、姫君は、遠慮がちに触れようと近づいてきた武士の手を振り払ってその武士に
「触らないでッッ!」と怒鳴りつけた。
武士はどちらに従えば良いのか分からず、オロオロとしている。
「聞きなさい!」
斎我がもう一度その武士に怒鳴りつけようとしたのを遮って、この場にいる皆に向けて声を張る。
「ここにいるのは、人殺しの鬼なんかじゃないッッ!國の為に命を張って夜叉を葬った英雄よ!この角は物の怪の証じゃない!夜叉を退治したときに付けられた呪いなの!
雲雀は何も悪くないッ!だから雲雀を殺さないでッッ!」
「早くこの場から出せッ」
何を言っている?夜叉を退治したなんて。あの鬼に謀られていらっしゃるのか。
ざわざわと野次馬が騒ぎ始める。その騒ぎは武者共に伝播して、わたしを疑うような目で見る者もチラホラと現れる。しかし殆どの人間は姫君の言うことを信じていないようだ。まさかと笑い飛ばす人間が大判だった。
「早く動けや、さっさとソイツの首を落とす」
わたしの髪を掴んでいる武者を小十郎が蹴り飛ばした。そのときに、武者の手がわたしの髪から離れて、ようやく顔を上げられた。顔を上げたとき、姫君は俺の顔を泣きながら見つめ、「雲雀……」と儚く呟いた。
その涙を拭ってやりたかった。
だけど、俺がどんなに願おうと、俺と姫君の間にある距離が埋まることは無く、武者が姫君を遠くへ押し返していくにつれ、広がっていくばかりであった。
きっと、もう最後だろう。声も手も届かない今、俺に出来るのは、最後に貴女に見せる顔を少しでもマシなものにすることだけだ。
こんな情けない負け犬顔じゃ格好がつかない。だから、遠く、遠くへ離れていく姫君の着物の方へ最後一度笑って見せた。
もう見えなくなった姫君の方を少し見つめて、それからまた、わたしは死刑場へ歩き出した。
耳を澄ませば。
風のない空に、わたしを呼ぶ姫君の声が、まだ少し波打っている。
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