第24話 蛍狩り 終

 段々と地平線の下へ夕日が隠れていく光景を、貞観殿の待機部屋から眺めている。もうじき、新月の夜が来る。


先程、上臈女官たちが部屋の中へ入って行った。だが、それっきり。今まで、葵から呼び出しはない。主人から呼び出しがあるまであとどのくらいなのかも分からない。いつ呼び出しがあるだろうとドキドキして落ち着かないまま、俯いては指を見て、顔を上げては夕日の沈むのを眺めるのを繰り返している。


 待機部屋には、他の上臈女官の侍女もいる。きちんと身なりを整えていて綺麗である。初めこの部屋で彼女らを見た時は少し驚いた。だけど今は、それもそうかと納得した。上臈女官はもちろん、直属で仕えている侍女だって、立派な家の子女なのだ。


だけど、そんな彼女たちも、今、わたしと同じように落ち着かない様子でチョロチョロと周りを伺っている。それを見ると、人間、根っこの部分は同じなのだなあと微笑ましくなった。


 彼女らはなぜか頻りにわたしの方を見るので、たぶん、新人のわたしが気になるのかもしれない。私語は厳禁なので、挨拶代わりにと、わたしを見ている侍女たちに微笑み返した。すると、彼女らは恥ずかしそうにわたしから顔を背けた。


 それから、特に交流もないまま時が経過して、 結局、すっかり日が落ちて残光も届かなくなった頃、わたしたちは部屋の中に呼ばれた。


 部屋に入ってすぐに葵と目が合った。わたしが寄って行くと、葵の強張った表情が、ふっと柔らかくなる。隣に座ると、葵から一言、「蛍を」と言付けられる。


 それに応え、「はい」と声を発した後、指示の通りに動くため、立ち上がろうとした所、葵から袖を捕まれた。葵の顔が耳元に近づいてきて、「ひばりが一番みたいね」と呟くのが聞こえた。


 何のことかよく分からなかったけれど嬉しかった。


 微笑む葵に頭を下げてから、部屋の外に出て、他の侍女とともに蛍の入った虫籠を隣の待機部屋に取りに行った。

それから庭に出て、わたしは池の方へ、他の仕女たちもそれぞれ庭に均等に散った。


 部屋の燈台の灯りが消された後に合図があり、籠の蛍を庭に放す。小さな籠から出てきた蛍は庭に散り、光子の群が闇の中に広がっていく。

そばに漂う光子が、まるで星のようにチカチカと瞬くのを見て、その幻想的な風景に思わず嘆息が溢れる。皆の嘆息も聞こえてくる。


 わたしたちはしばらく、闇の中でその輝きを見ていた。


 ふと、部屋の中にいる淑女達はどんな気持ちだろうと気になって、部屋の方を見てみると、ちょうど、縁側で姫君が腰を下ろしたまま蛍の舞う様を見て微笑んでいた。その綺麗な笑顔は光のように胸の奥まで忍び込んできて、激しく、熱い何かを揺さぶった。


 胸から顔に昇った熱に慌てて、姫君から目線を逸らせても、顔の熱は冷めず、むしろどんどんとひどくなっていく。

 自分の顔を見なくても、どんな顔をしているのか分かった。闇の中で良かった。この赤い顔を見られたら恥ずかしくて死ぬところだった。


逃げるように庭を離れた後、しばし風にあたってから再び部屋に戻る。

先程のように葵のそばに付いて主たちの交流を眺めていると、部屋のどこかで不意に誰かが歌を詠んだ。

 すると、直後、部屋のどこかで返歌が詠まれ、歌の心を通わせ合った上臈二人とその周りが、楽しそうに話に花を咲かせ始める。


 一度火が付けば広がっていくように、別の上臈や、侍女たちが、部屋の中で歌を詠み上げ、そのたびに、波紋のように話の輪が広がっていく。

それはいわば約束となり、一人一首ずつ、歌を詠み上げることが求められるようになる。

 結果、身分の高低を問わず、歌の発表が行われ、案の定というべきか、上臈女官の歌の巧さが際立った。


 儚く明滅しながらさまよう蛍の明かりに己の魂や恋心を投影したり、声もなくただ思いに燃えて光る蛍に余情を抱いたりと、もののあわれを込めて巧く詠み上げられた上臈女官の和歌がただの光の明滅を美へと昇華させるのである。

確かな知性、格調高い振る舞い、そして、視覚的な美しさ。そのどれもが、花のように今宵を彩る。


だが、美しい花には棘がある。悦楽の裏には毒がある。そんな予感が拭えない。

 葵のそばに付き添って部屋の様子を見ていると、言いようのない不安が、時々襲ってくる。

 その訳の一つは、わたしに向けられる視線の色だ。


 葵が他の上臈女官と交流すると、その相手はわたしを見て、必ず、戸惑ったような顔をする。

葵が嫋やかに話しかけているのに、まるで叱られている子供のように小さくなり、結局、萎縮した態度を見せまいとして繕ったような不格好な笑顔を浮かべる話し相手になる。


 今話している相手もそうだ。

葵は、そのことをどう思っているのだろうか。

 気になって横顔を見たとき、葵がその嫋やかな笑みを、一瞬、冷たい嘲笑に変えた。


 葵の視線を辿っていくと、相手の侍女にぶつかる。わたしがその侍女を見ると、その侍女は怯えたような目でわたしを見つめ返してくる。

そのとき、ふと、葵がわたしを呼んだ本当の訳に気付いた。

 そうか、わたしは、葵の装飾品なのだ。


 昨日、わたしに、「誰よりも綺麗で居てほしい」と言ったのも、わざわざ着物を特別に用意して、腕のある化粧師に化粧をさせたのも、自分を彩る花として使うため。

 それに、葵はたぶんわたしの名誉挽回のことなど、どうでもいい。

先程から、わたしにその機会を下さる素振りがない。


 裏切られた気がした。なんだか悲しかった。見栄を張りたい葵の気持ちを分からないわけじゃない。わたしが道具として都合が良いのなら使いたくなるのも無理はない。だけどそれなら、わたしに嘘を言わず、ちゃんと理由を言ってくれても良いじゃないか。


 侍女から葵の方に視線を戻すと、葵は部屋のどこか遠くをひどく冷たい無表情で見つめている。

その濡れた瞳に燈台の火の灯りが反射して、光の筋が一本、映っている。どこか鋭くて刀のように冷たい光だ。


 なんだか嫌な予感がする。そう思った瞬間、和歌を詠み上げる声が、部屋に響き渡る。

 それは、ある男官への思いを歌った恋の歌。

その甘い歌に、誰が返すのか、場がワッと沸いたとき、葵が、誰よりも早く、返歌を添える。


「声を立てないで身を焦がすばかりの蛍のほうが、声に出したあなたよりもずっと思いが深いでしょうね」と。


 直後、話し声が凪いで、打ったように静かだ。

 聞き間違いを願って、恐る恐る視線を葵に向けたが、葵はまっすぐにその上臈女官を睨んでいる。

聞き間違いではない。

そして、不思議だが、何もかもが分かった。


 ああそうか、あの上臈が、葵から禁色を取り上げた女だったのかというように。

ならば、あの上臈の名は、睡蓮か。


 葵と睡蓮が今にも衝突しそうになったとき、二人の上臈が場を仲裁した。その二人とは、紫陽とアザミである。

 初めに声を上げたのは、紫陽だ。彼女は、はっきりと、葵の振る舞いを場に相応しくないものだと断じた。一方でアザミは紫陽とは逆に睡蓮に対して、批判するような和歌を詠んだ。

 アザミが葵の味方をしたことに驚いていると、アザミはわたしの方をちらっと見て、再び、睡蓮を見下すような目で見つめ直した。

 アザミが歌を詠んだ直後、真っ青な顔をしていた睡蓮は、しかし、アザミを睨み返して、返歌の上の句を詠み始める。

 その声を遮って、アザミは、「次は雲雀の番かしら?」と言うと、わたしの方を見て、その口元を袖の裏に隠した。


アザミの発言を機に、皆が一斉にわたしを見る。目の奥に、加害的な好奇心がちらついている。その視線が怖くて葵の方を見ても、葵はいつまでも睡蓮を睨むだけで、わたしを助けてくれそうにない。


 どうやらわたしの悪評は、あの場の騒動を打ち消してしまうほどに強いらしい。先程の騒動が、まるで、わたしによって引き起こされたような、そんな空気になっている。

 睡蓮あの上臈もほんの少し理性を取り戻したのか、表立ってアザミを攻撃せず、代わりに葵の侍女のわたしに狙いを定めて、肉食獣のような恐ろしい目をわたしに向け初めた。


 庭から部屋の中に忍び込んできた蛍が、そばで何度か儚く明滅する。その明かりに、胸の奥から、一首の歌が、溢れて生まれる。

「あはれにも みさをに燃ゆる 蛍かな 声立てつべき この世と思ふに」

――――いじらしくも頑なに燃える蛍だなあ……悲鳴を上げてしまいたくなるこの夜であるのに――――


 みなわたしの歌に沈黙して、しばし何も言わない。しかし、あの上臈がわたしの歌に対して、気に入らない点を挙げたのを皮切りに、場の上臈たちがわたしに対して、鋭く言葉を突き立て出した。一つ、何かを言われるたびに、身体に傷が付いていく気がした。姫君の前でわたしに傷が付くたびにたまらなくなった。姫君には傷だらけの醜いわたしを見られたくなかったのに。


 わたしが悪く言われても葵は何も言わない。わたしをここに連れてきたのは葵なのに。そう思って葵を見ると、葵はひどく失望したような目でわたしを見ていた。まるで、わたしの稚拙な歌のせいで、葵の評判が落ちてしまったというように。


 早く夜が開けてほしい。もう、二度とこんなところには来たくない。そう思って、わたしは空を見た。月の無い空では、いつ夜が明けるのかなどわからない。この夜に閉じ込められて、ずっとこのままかもしれないと怖くなって、俯いたままギュッと手を握ったとき、


「どうして?」と誰かが言った。わたしは恐る恐る顔を上げて、声の方を見た。あの声は確かに姫君の声だったから。

 燈台の赤い火に照らされて姫君の顔が見える。姫君は、皆を見渡すともう一度その唇を動かした。

「わたしは、雲雀の歌が好きよ。」


 姫君は、突然立ち上がって、こちらの方へ歩いてくると、わたしの前で膝を突いて座り、わたしの目を真っ直ぐに見つめた。そして、わたしの左手を握って微笑んだ。


「落ち込まなくて良いわ。だって、わたしは雲雀の歌が好きだもの。」

姫君の笑顔をちゃんと見たいのに、視界がぼやけて不鮮明だ。人差し指を目元にあてて涙を拭っていると、姫君はそっとわたしの左手から手を離した。わたしが目元の水分を拭い去った頃には、もう姫君はわたしの正面にはいなかった。


 今は、また先程のように柱に持たれている。庭の蛍の儚い明かりを見つめるその表情にあの温かな微笑みはなく、ただ澄んだ無表情があるばかり。


 紫陽が、「最後は百合様ですね」と語りかけると、姫君は紫陽を見て微笑んで、「そうね。わたしは――――」と自身の歌を詠んだ。

「さゆり葉の 知られぬ恋もあるものを 身よりあまりて 行く蛍かな」

――――小百合の花のように、誰にも知られないように焦がれる恋もあるのに、恋の火がわたしの身から満ちあふれて 飛んでいく蛍かな――――


 その夜、姫君の目線の先にいるのは誰だろうと、蛍のように胸をぎゅっと痛めながらわたしは身を焦がした。

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