第17話 試験(2/2)

「今から貴女に試験を課します。書、詩歌、管弦の能力を見させて貰います。あそこの机に座りなさい。」


手で文机の方を差し、紫陽はわたしの背を押して促した。わたしは促されるままに、前に進んだ。そして、固まっている身体をぎこちなく動かして、なんとか正座して姿勢を整え文机に向かった。


 紫陽はわたしの対面に座して「詩歌の試験は……」と言いかけたとき、風の音に反応しふと横を向いた。釣られて横を見ると、外の庭に植えられた幾本の桜が風に吹かれて散っている。


「桜花 散りぬる風の なごりには――――」

――――桜の花びらが散ってしまった風の名残には―――

不意に和歌のかみの句を言った。そしてちらりとわたしを見た。


わたしが何の句か知らないので固まったまま黙っていると、紫陽は呆れたようにため息をついて、しもの句を加えた。


「水なき空に 波ぞ立ちける」

――――水のない空に、花びらの波が立っている――――

しもの句を聞きながら、唖然として紫陽を見た。ここでは、こんな風に突然上かみの句を言われれば下の句を返すことが当たり前なのだろうか。下の句を返せる知性を皆が持っているのだろうか。


 唇が動く機会を得ないまま、時が過ぎていく。紫陽の言葉を待つしかない状況が、わたしをさいなむ。


「白居易の詩を一つ書きなさい。」


白居易の詩は師が時々口ずさんでいたのを覚えている。えっと、


「国破山河在 城春草木深――――」

国破れて山河あり、城春にして草木深し――――「それは杜甫の詩よ。」


 紙に筆で字を書いていると、突然頭の上から刃のように鋭い声が掛かって心臓が震えた。恐る恐る頭を上げると、わたしを細めた目で見ていた。


次に何を言うか自然と分かった。


 長恨歌も知らないの。


「あなた、長恨歌も聞いたこと無いの?」


 も、もしも、こ、ここが、戦場…なら、己の思考を、さ、悟られず、て、敵の考えを、読み取らなければ、ならない。


動揺で混乱した頭でそう考えた。紫陽の考えが読める自分を偉いと心で慰めた。そして、この俺が、心が自然に読めるほど顔色を窺っているのだと知って悲しくなった。


 紫陽はわたしの書いた字を見るために覗くようにして少し紙に顔を近づけてくる。

紫陽の顔が近くに来ると、胸がドキドキと高鳴る。じんわりと肌に汗が浮かぶ。震えが手先に現れる。


「貴女、字は綺麗なのね……」


 その鋭い瞳が墨字からわたしの顔へ向いた瞬間、一際胸が強く高鳴った。先ほどまで怖かった彼女の雰囲気が、今は輝いて見える。いけない、これは、いけない。そんな浅薄な駆け引きで落ちるなんて。


 わたしは足をつねって正気を取り戻した。再び居住まいを正して紫陽の発言を待った。紫陽はわたしに、「筆を使うのは終わりです。」と言って、付いてくるように促した。筆を文机に置いて、立ち上がり、紫陽の後ろをひよ子のようについていくと、廊下に出て、隣の部屋へ入った。


 何をするのだろうと思いながら紫陽の入った部屋に自分も入ると、部屋の中央には琴が一つ置いてあって、紫陽がわたしにその琴のそばに座れと目で伝えてきた。わたしは従って琴の前に座った。

 琴など今まで弾いたことが無いから、どうしようかとたまらない気持ちになった。


紫陽を見ても、紫陽は譜面をわたしに渡すだけだ。きっと、この次には弾いてみなさいと言うのだろう。

「この譜面を弾いてみなさい」

ああ、やっぱりか。


 譜面を睨んでその記号を解釈しようと試みるも意味がよく分からない。

紫陽の顔色を見ながら、一つ目の音符の示す弦は何処だろうと、一本ずつ触っていく。紫陽の顔色は険しいまま変わらない。わたしがこっそりその顔色を盗み見ているのに気が付くと、顔を上げてわたしを睨んだ。

わたしは恐怖から彼女に謝った。


「ごめんなさい、わたしは琴を弾いたことがありません。」


すると紫陽は驚いたような顔をし、その後すぐその表情を冷たくして、

「ならば試験はこれで終わりです」と言った。


紫陽が決めた判決がすぐに分かった。だから完全に試験を切り上げてしまう前に、一瞬考えて、「笛なら吹けます」と食い下がった。すると、歩を止めてわたしを見てくれた。

 どこにはべっていたのか、仕女がひとり部屋の影から姿を現す。その仕女に、紫陽が笛を一つ持ってくるように言うと少しして木目の柄が美しい笛を一つ持ってきて、渡してくれた。

「譜面も、笛の譜面をいただけますか。」

わたしが恐る恐る言うと、仕女が笛の譜面を一つ持ってくる。わたしはその譜面を受け取って、手近にあった譜面台を引き寄せた。譜面台のそばに正座して、譜面を台の上に置き、笛を顔の前に構える。

 そのまま、笛の口へ唇を柔らかくつけて、ふっ…と初めの音を出した。それから、楽譜を夢中で追いながら、笛を鳴らした。

演奏を終えて、笛から唇を離して、正面に座って聞いていた紫陽の顔を見た。わたしの目を見つめ返して、しばらく何も言わないで瞬きをした後、ひと言、「これで試験を終わりにします」と俺の手から笛を受け取った。

「付いてきなさい。」という言葉に従って、紫陽の後ろを半歩下がって歩いていると、紫陽はわたしに試験の結果を言い始める。


「詩歌はからっきし、音楽も、あまり上手くない。……だけど、字は綺麗。」


紫陽の唇が動くのを斜め後ろから注視した。息を飲んでその結果を待った。


「最低限は出来るようだから、貴女は女嬬にょじゅとして働きなさい。

これから、貴女の部屋へ案内します」


「はい!」


 紫陽は本丸の北側の殿舎、つまり、女たちの住む奥殿へとわたしを連れて行く。各殿舎は渡り廊下で繋がっていて、奥殿へ行く途中その廊下を渡るとき、掃除をしたり、書を運んだり、裁縫をしたりと、色々な女がいるのが分かった。


「ここです。同室の葵に付いて学びなさい。」

 紫陽はわたしの元から去って行く。残された後、部屋の前でぽつんと一人、しばらく襖を見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る