第18話 宮仕え1

開けるのを躊躇ったままうんうんと悩んでいてもどうしようもない。

思い切って襖を開けて部屋の中を覗いてみた。中で女が一人、文机に向かって墨筆で文字を書いている。


「あのっ」

その背中に声をかけると、女は振り返った。どこか、冷たい眼差しをしていた。女は、徐にまた前を向く。目の前の書院窓の方を、ぼうっと眺める。開け放たれた書院窓から、ちょうど、庭の桜が散っているのが見える。

 桜を見つめたまま、女はわたしに和歌を詠んだ。


「久方の 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」

――――日の光がこんなにものどかな春の日に、なぜ桜の花びらは、落ち着きもなく散っていくのでしょうか――――


 その歌に、彼女が返答を欲しているのが、何となく分かった。声音が縋るような哀しみに濡れているから。だが、どう返歌を詠めばいいか分からない。

分かったのは、きっと、ここではこれが日常だということだけだ。わたしは、当たり前のこと一つできないで、つまづいてしまったのだ。


 時間が経っても、わたしは、たじたじとしたまま、彼女を見つめるだけだった。

そんなわたしを、葵は不思議そうに見た。そして、「どうして、無視をするの?」と問いかけてきた。


せっかく、わたしに歌を贈ってくれたのに、返歌の一つすら詠めない自分がただ恥ずかしかった。羞恥が棘のように刺さって、毒のように、胸を染めていく。

 皆に信用されて、認められて、地位を得て、姫君に会いにいくのだと、頭の隅で描いていた夢から、覚めたようだった。

 わたしは、当たり前のこと一つ、できないじゃないか。

 

「ごめんなさい。わたしは未熟で、満足に返歌を詠むことができません。」

 恥ずかしくて、悔しくて、泣きそうな気持ちを必死に抑えつけて、彼女へ頭を下げて返歌を詠めないことを謝った。


 わたしが顔を上げると、彼女は優しく微笑んで、わたしの瞳を見つめた。その優しさが当たり前のじゃなくて、彼女の性根の優しさが作り出した偽物であることはわたしでも分かった。微笑む一瞬前に、失望した顔をしていたから。


「辛いかもしれないけれど、これから学んでいけばいいわ。貴女も自身を磨くためにお城へ働きに来たのでしょう。」

「わたしは、ただ姫君に憧れて……」

「そっか。」


真面目に理由を答えたわたしに彼女は苦笑する。その苦笑の中には、身分不相応な願いを抱くわたしに対する憐憫や庇護欲がこもっている。

それを感じ取って、自分が本当に滑稽に思えて、赤面したみっともない表情を隠すためにさらに深く頭を下げて顔を隠した。そのまま、

「雲雀と申します」と名乗ると、

「私は葵よ。雲雀ちゃん。」

葵はわたしに微笑んだ。


 部屋の中に入って葵のそばに座った。正座をして居住まいを正し、彼女に教えを請うた。

「和歌は、どのように学べばいいのですか。」


私の真剣な態度に、それまで微笑を湛えていた表情が思案する具合に変わる。すぐにわたしの目を真っ直ぐに見て答えてくれた。

「古き良き歌に触れ、その情念を味わうことが、和歌を学ぶ第一の方法よ」


わたしは古き良き歌などひとつも知らない。知っているのは師匠が時々口ずさむ歌ばかりで、その歌も音のみしか分からない。


「古き良き歌とは、どういうものなのですか。」

「和歌集に載っている歌はどれも良い歌ばかりよ。」

わたしが困っていると、彼女はわたしの表情を窺うように見て、もしかしてと小さくわたしの耳元に囁いた。

「和歌集を読んだことがないの?」

「はい……」

「なら……」


彼女の文机に置いてあった書をひとつわたしに差し出した。表紙に印字された文字を見て、それが古今和歌集であることが分かった。それを彼女から受け取って、そのまま、どういうことなのか考えていると、

「貸してあげるから、それを読んで学ぶと良いわ。」

「わたしに貸すと、葵さんが困りませんか?」

「全て暗記しているから大丈夫よ。」

「ありがとうございます……大事に使います。」


 わたしが彼女から受け取った和歌集を抱きしめたまま頭を下げて礼を言うと、葵の手が頭に伸びてくる。その手がわたしの髪に触れそうなとき、部屋の出入り口の襖の方からこつこつと硬い柱を叩く音がしたので、葵はわたしから手を引き、襖の方を見て「どうぞ」と声を掛けた。


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