第29話 嘘つき 2
昨夜遅く、二の区画の湯殿へ風呂に入りに行った帰り道、濡れた髪を拭きながら月に向かって口笛を吹いていたのだが、突然背後から声を掛けられた。
振り返ると、わたしの後ろにどこかで見たような男官が立っていて、何かをわたしに言おうとしている。
闇討ちかも知れないと思って、周囲に他に人の気配が無いかと確認していると、男官が突然頭を下げてきて、「これを受け取って欲しい」と言ってきた。暗くて何を持っているのかよく見なかったので恐る恐る近づいてみると、持っているのは手紙だった。
怪しい物は特になかったのでその手紙を受け取ると、突然、「送ります」と言ってきた。意味が分からなかったので、頼んでいないから付いてくるなと婉曲的に伝えてやると思いの外素直に引き下がった。
「誰にこれを渡せばいいのでしょう?」
わたしに手紙を渡す道理など無いから、つい伝令を頼まれているのかと思って聞くと、男官は首を横に振ってわたしに宛てた物だと言う。封の中身が気になって、封を月明かりに透かして手紙を読もうとしたら、部屋の中で開けて読んでくれと怒られた。
「自分は左近衛府で次官をしている。宴で君を見て、そ、それで、その、て、手紙を書いた。家は西の三丁目にある屋敷で、そうだな、橘が目印になるはずだ。きっ今日は、これで帰る」
どこかで見覚えがあると思っていたら、そうか、あの時の男官だったか。などと考えているうちに、男官は風のようにどこかへ帰ってしまった。その後、わたしも葵の部屋へ戻り、寝る前にその手紙を文机の上に置いたはずだった。
しかし、その手紙がどこにもない。
風に飛ばされたのか、鼠でも出たか。
今朝も探したのだが見つからなかった。
仕事から帰ってきてからこうして部屋の中を探しているが影も形もない。
部屋に無いのなら、外に飛ばされたのだろうか。
部屋を出るとき、ふと、葵の文机の中が気になったが、邪推は良くないとその思いを断ち切って、部屋の傍の庭に出た。
庭をうろちょろ探している最中、少し遠くの方の渡り廊下で葵の着物が横切るのが見えた。庭から渡りの方へ歩み寄るうち葵の顔が見えてきて、思わず体を引いた。葵の顔に、人形のような無表情が張り付いていたからである。
どこへ行くのだろうか。
どうしても確かめずにはいられない気持ちを押えられず、無意識のうちに体はもう動き始めていた。庭からすぐそばの殿舎に回って、履き物を脱いで上がる。葵の通った渡り廊下の方へ早足で向かう。渡り廊下に着いた後、葵を探しながら渡り廊下を渡ると、少し先の廊下で葵の後ろ姿が見えた。その背中を足音を立てぬように追いかける。
葵は北の方へと歩いて行く。殿舎を幾つか渡り貞観殿に来ると、姫君の部屋の前で止まる。そのままコンコンと柱を叩いて、部屋の中に招かれると襖を開けて入っていく。襖が閉じた音を聞いた後で、周囲に人のいないのを確認し、その襖の前まで歩いていって、中の声に耳を澄ました。
趣味が悪いと分かっていた。
中からこんな会話が聞こえてきた。
「今日はこちらが届いていました。」
「ありがとう……差出人は、下級官僚や下級武士がほとんどね。中級官僚が少し増えたみたい。いったいどこで聞きつけてくるのかしら。あ、この手紙……またあの御方から届いているわ。こっちにも。」
「雲雀に渡す物はありますか?」
「どれもダメね」
「承知しました。」
「……」
これ以上聞きたくなくて、わたしは貞観殿の前から去った。
あなただけは違うと思っていたのに、結局はあなたも同僚たちと同じように、こそこそと裏でみっともない
わたしが初めてあなたを見たとき、あなたに感じた眩しさは幻だったのか。
悲しくて、やるせなくて、胸が一杯になった。
歩きながら、ポロポロと目からこぼれ落ちていく涙をどうやっても止められなかった。
あんな人のために俺は剣を捧げたのか思い、血がカッと熱くなった。
何のために必死に武勲を積み上げてきたのかと、虚しくなった。
しかし、何よりも、好きだった姫君を嫌いになるという事が辛かった。
部屋に帰る途中、渡り廊下から見えた庭で木々が青々とした葉を茂らせていたのが、どうしてか記憶に深く残っている。
姫君に会うためにここに来て、挫折して、それから毎日和歌を学ぶために文机に向かった。その時、部屋の書院窓からあの庭の木々をよく眺めた。すっかり自信を失っていたとき、そんな自分が、花びらを全て散らせたあの木の裸の枝に重なって見えたものだった。だから、そんな枝に新緑の葉が茂るのを見ると嬉しかった。
だが、現実というのは皮肉なものだ。
葉緑が最も美しく映える瞬間に、わたしの恋は終わってしまったのだから。
部屋に戻り、しばらくの間、何もしたくなくてうずくまっていた。しかし、そのうち、気持ちと裏腹に体が勝手に動きだした。体は葵の文机を開けた。中には、ビリビリに破られた手紙が入っている。
それを見て、分かったのは、
葵がたぶんあの男官のことが好きだったということと、
もう二度と葵との仲が修復することはないということだった。
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