第28話 嘘つき 1

 今日の仕事が終わったので席を立つと、今まで周りで談笑していた女嬬たちがわたしの方をちらっと見た。


 七夕の日以降、人から睨まれることが多くなった。これまで気のせいだと自分を誤魔化していたけれど、呉服を運んでいるとき同僚の女に足を引っ掛けられそうになって確信した。以前は悪口や無視されるくらいでこんな風に直接攻撃してこなかったのに。


たぶん、あの宵、宴で詠んだ和歌が貴人から失笑を買ったのだ。それがまわりまわって悪評になり、結果、こういう状況になったに違いない。何もかもが上手く行かない。あんなに頑張ってきたのに、一つも報われやしない。このまま、誰からも失望されて、また、わたしは行く宛てを無くすんだろうか。


 独りぼっちで雨に打たれる寒さを思い出して、急に淋しくなった。


 わざとぶつかられたり、わざと足をかけられたり、偶然を装って水を掛けられたり、そんな嫌がらせを躱しながら、縫殿寮を出てそのまま真っ直ぐ本丸の葵の部屋へ戻る。


 いつものように和歌集を開き、葵はいつ帰ってくるかと障子を開けて夕日が見えるようにしておく。

最近葵とあまり話せていない。これまでずっと歌合わせのために遅くまで稽古していたから。


 葵の帰るまで、わたしは何首か歌を詠んだ。気に入った歌を短冊に書いた。それからぼうっと部屋の書院窓から、庭に植えてある木々を眺めた。蒼い葉に赤い夕陽の光が当たってキラキラと輝いている。その木々の根元は暗い影が覆っている。外から部屋の中に忍び込んでくる風はまだ生暖かいが少し涼しい。夏の熱気も今日はどこかへ去っていったようだ。


 夕日が地平線の下へ沈み始め、赤い空に紺青が混じり始めた頃、部屋に近づいてくる足音が聞こえた。襖が開き、帰ってきた葵と目が合ったので、いつものように「おかえりなさい」と声を掛けると、素っ気なく「ええ」と言いすぐに自身の文机に行ってしまう。


 わたしが詠んだ歌を葵に見て貰おうと短冊を持って少し近づこうとしたとき、葵がわたしの方を見た。

「少し部屋から出て行って。着替えるわ」

「はい」


 帰って来たばかりなのに、不躾だった。葵と話したかったから焦ってしまった。

葵の着替えが終わった後も、葵はわたしに一瞥も与えてくれず、開け放たれた障子から、薄暗い外の風に揺れる木の葉をぼんやりと眺めている。


 もう一度近寄って、歌を見て貰おうと短冊を手に取ったとき、また葵はわたしの方へ目線を向けてきて、突然こう言った。

「雲雀、そろそろ貸していた歌集を返して」

 借りていた和歌集を葵に返す際、わたしが礼を言うと葵は聞こえていないような素振りをした。


これ以上、何と声をかければいいか分からないから、自分の文机に戻った。いつも、葵と話すか和歌集を読むかして時間を過ごしていたから手持ち無沙汰だ。だが、やることを探そうと下手に動けば、葵からもっと嫌われる気がするからじっと正座して夕食まで時間が過ぎるのを待つ。


 ピリピリとした空気が息苦しい。これ以上耐えられそうになくて、部屋を出ていようかと襖の方を見たとき、コンコンと柱を叩く音がした。葵が、「入りなさい」と声を掛けると、見知らぬ女官が襖を開けてお辞儀をした。その後、葵ではなくわたしを見て「百合様から、20時に貞観殿へ来るようにとのことでございます」と言い残し去っていく。


 葵は無表情のまま、ぼんやりと月をみている。それを邪魔しないように、なるべく静かに準備して、わたしは20時に姫君のいらっしゃる貞観殿へ行った。


貞観殿についてコンコンと柱を叩き名乗ると、姫君の声で「入って」と聞こえた。襖を開けると、姫君が濡れた髪をタオルに当てて乾かしている。濡れた黒髪が色っぽくて、ドキリと胸が高鳴った。


 意識をしていないとジロジロと見てしまいそうだから、視線を自分の膝頭へ向けた。そのまま「御用をお申し付け下さい」と言うと、のんびりとした口調で「うーん…」と呟きながら考え出した。どういうことだろう。御用も無いのに呼びつけなさったのだろうか。


 少しして思いついたように「髪を乾かすのを手伝って」とおっしゃった。そばに寄って、姫君の持っていたタオルを受け取って髪の水分を取る。髪を引っ張らないように丁寧に拭いている間、姫様は黙ったままだった。髪を拭い終えて、櫛で整えた後で「終わりました。」と報告すると、「ありがとう」とわたしの方を見て言う。


 用事は終わりだろうか。


「雲雀はどんな風に生まれたの?」


質問の意図がよく分からず、一瞬考えて、

「よく覚えていませんが、たぶん皆と同じように母親から生まれ、布に包まって母の腕に抱かれたと思います」


「雲雀のお父さんとお母さんはどんな方?」


「父は元々武士で、けれど今は農家に婿に入ったので田んぼや畑で働いています。母は農家の娘で今は父と一緒に受け継いだ畑で作物を育てています。わたしが手伝いを怠ければ怒りましたし、わたしの帰りが遅いとやっぱり怒りました。わたしが家を出ると言ったときも、養う子供が一人減るから特に何も言いませんでしたし、他の兄弟たちが家を出るときと同じように、わたしにも少しのお金をくれました。平凡な父と母です」


 取り立てて面白みのない話なのに、姫君はわたしの話を聞くとどうしてか嬉しそうに笑う。

それが不思議で、

「どうしてそのような事をお聞きになるのですか?」と尋ねると、

「雲雀のことが知りたいわ」

と言って色っぽく微笑む。


ドキリと胸が高鳴った。林檎みたいに赤くなる顔を手で隠した。隠しているのに、姫君は覗き込むように見てくるから、そばから離れて逃げると、わたしの着物の裾を引っ張ってくる。


「どこへ行くの」

「どこにも行きません」

「ならどうして立つの?」

「座りますから」


わたしが座ると、姫君は満足そうに頷く。少し空いた距離を縮めなさいというように、手招きしてくるので姫君のそばに近寄った。


「わたしのお父様はね、中ノ國を治める主だからみんなに怖い顔ばっかりしているけれど、ちゃんと怖くない所もあるのよ。だいたいいつも武士の顔ばかりだけど、わたしやお母様には時々優しい父の顔を見せてくれるわ。」


 姫君の言葉で、わたしは餓鬼の頃に見た斎我殿の姿を思い出した。


「姫様のお母上はどのような方なのですか?」

「雲雀も私の事が知りたいのね」

「はい」


 少し驚いたように目を可愛らしくパチパチと瞬いた後、少し遅れて話し始める。

「お母様はすごく優しいわ。いつも笑っていて、私が元気でいるだけで喜ぶの。それに、綺麗だからみんなから繊細な方だとか牡丹みたいだって言われているのよ。だけどね、お母様は怒ると凄く怖いの。秘密だけれどね。」

 椿様がお怒りになることなどあるのだろうか。わたしには想像も出来ない。


「ねえ雲雀、最近変わったことは無い?」

 同僚から嫌われた事を明かすのは告げ口みたいで嫌だ。葵が私を嫌っているかも知れないと口に出してしまえば、それが確かな現実になってしまうような気がした。


「いつも通りです」

 私は姫君に嘘をつかないまま、真実を言わなかった。気にかけていた疑念が晴れたように、姫君が表情を明るくするのを見て、チクリと心が痛む。

先程から聞こえていた就寝の時刻を知らせる声が、こちらの方まで近づいてくる。その声を聞き取った姫君が、「もうそんな時間なのね」と言ったので、便乗して、「わたしはそろそろ退出致します。」と告げた。


乙女の部屋に男がいつまでも居座ってはいけない。


わたしが、退出するときに、姫君から「ねえ」と呼び止められる。


「この後、何か予定はあるの?」

「はい」

 わたしが頷くと、表情を固くして「それは何?」と聞いてくる。

「湯を貰いに行きます。」

 ただ風呂へ行くだけだと答えたのに、まだ表情に影がある。


「その後は……?」

聞きづらそうな事を聞くように、姫君は上目遣いでわたしを見なさる。

 よく分からないまま、素直に

「寝るつもりです」

と応えると、やっとその表情から影は消えた。


 襖を開けて、外に出た後、今一度姫君にお辞儀をした。襖を閉めようと手をかけたとき、姫君が不安そうな表情で話しかけてきた。

「ねえ雲雀。明日も来てくれる?」

「はい!」


また会えることが嬉しくて、笑顔で応えると、姫君は安心したように微笑んだ。

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