第30話 嘘つき 終

 夕刻、飯を食べに二の区画へ行った。食堂の隅で料理に2、3口手を付けるとそれ以上喉を通らなくなった。そのまま独りぼっちで飯を眺めていると、時間ばかりが過ぎていき、食べ終わる頃には周りに誰もいなくなっていた。

 飯を食べ終えた後、部屋でぼんやりと身支度を整えているといつの間にか時刻が20時になった。姫君のいる貞観殿を訪れたとき、時刻は既に20時を過ぎていたのに、遅刻したことに対して何も思えなかった。


 昨日のようにコンコンと柱を叩き名乗ると、中から姫君の声が返ってくる。何を言ったのかぼうっとしていてわからなかったが、襖を開けて部屋に入った。


 初めに視界に入ったのは、わたしを見てにっこりと柔らかく笑う姫君だった。その笑顔に答えようと頑張ったのに、少しも笑えない。すると姫君はわたしの気が沈んでいるのに気が付いた様子で、「どうしたの?」っと声をかけてきた。わたしは、返答を待っている姫君の前に正座で座り、そのまま揃えた手を床につけ頭を深く下げた。


「今日の夕刻、姫様と葵の会話を盗み聞いてしまいました。」

そう打ち明けると、姫君は明らかに表情を変えた。その顔に少しだけ語気を強めて

「わたし宛ての手紙を検閲なさっていたのですね。」

と言うと、姫君の顔から血の気が引いていく。


「あの、それは……」


「盗み聞くような卑怯な真似をして申し訳ありません。無礼を働いたわたしがこの城へいることはできません。今日を以てこの城から去ります。最後にわたしの気持ちだけをお聞きください。」


 何も言わず去れば良いものを、間違いであってほしいという思いが消えないから、こうして全てを終わらせに来た。


「わたしにとって、姫君以外の方などどうでも良かった。どれだけたくさんの恋文が送られてこようが、どれだけ大きな金や名誉を積まれようが、そんなものに応えるつもりはありませんでした。だから姫様がこんな卑怯なことをする理由なんて無いんです。だから、お願いです、もう、二度とその真っ直ぐな気性を汚さないで下さい。

わたしは、それだけを言いに来ました。」


「待って、ひばりッ!」


 立ち上がって、部屋を出て行こうとしたとき、左手を握られた。振り返れば、姫様の泣きそうな顔があって、それを見た時から足が震えて動かなくなった。

断ち切らなきゃいけない気持ちを断ち切れず、振りほどかなきゃいけない手を振りほどけない、そんな中途半端な自分が、ひどく情けない。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」

姫君がわたしに謝るのを聞くたびに、胸の奥が辛い気持ちで一杯になった。好きな人を傷つけているんだと、自分から責められているみたいに。


「変な男に貰われていくんじゃないか心配だった。悪いことだと分かっていたのに、結婚の邪魔をしたの。初めはちゃんとした人に貰われてほしくて、こんな事をしているつもりだった。だけど、本当は誰にも貰われて欲しくなかった。ずっと、そばにいて欲しかった」


 何よりも重かった姫君の言葉を軽いものに変えたのは、姫君の振るまいか、わたしの心変わりか。前者であって欲しいという気持ちが言葉になる。


「わたしの気持ちを考えてくれなかったのですか。ずっと信じていたのに。ずっと、あなたに「行くな」と言って欲しかったのに」

「ごめんなさい」

「あなたは、誰かに裏切られる悲しみを知らないのですね」


 好きで、好きで、だからこそ許せなくて、感情のままに言葉をぶつけた。しかし、その言葉が、姫君の顔から色を奪った。呆然としてわたしを見つめるその瞳から涙がこぼれ落ちた瞬間、瞳の奥で輝いていた何かが壊れたと知った。

 それは、この世で最も悲しい顔だった。その顔を見て、わたしは言ってはいけない事を言ってしまったのだと気が付いた。


「ごめんなさい、酷いことを言いました」

すぐ謝ると、姫君は笑顔を繕った。

「ううん、雲雀の言うとおりよ。」

だが、その笑みはすぐにほつれて、酷く脆いガラス細工のような泣き顔に変わる。

「わたしはあの人と同じ事をあなたにしたのね――――」

ひび割れたような声が、尋常ではない過去を物語っている。

「誰ですか、あなたを、傷つけたのは」

わたしが討たなければいけない悪童の名を尋ねると、姫君から返って来たのは、他でもない、わたしの、空木雲雀の名前だった。

 すぐには理解が追いつかなくて、過去を振り返って考えた。幾つもの記憶を探しても、わたしに、身に覚えなど無かった。何かの間違いだと思って、姫君にもう一度確かめようと決めたとき、姫君は言った。

「あの人は私に嘘をついたわ。」

 身に覚えがない。

「そんなはずありません」

「どうしてあなたがそんなことを言うの」

「それは、だって――――」

言葉を飲み込んで、わたしは、何があったのかと尋ねた。すると姫君は話し始めた。


「あの人が夜叉を討ちに行くと知らされたのは、既に出発した後だった。雲雀は武勲を上げるのに必死だったからその知らせを聞いたとき、嫌な予感がした。あの人はどこか、生き急いでいるみたいなところがあったから。

 毎日不安を抱えたまま、ずっと、雲雀の帰りを待っていた。生きて帰ってくるって信じてた。でも、雲雀は夜叉退治に行ったっきり、いつまで経っても帰ってこなかった。

 私を守るって言った癖に、わたしに好きだって言った癖に、口だけで浄土に逃げた。約束を破って私の前からいなくなったッ。ずっと、ずっと、帰りを待っていたのにッ!」


いつも穏やかなこの人が、感情的に取り乱すのを見て、ようやく自分がした事を理解した。

 勝手に失望して、勝手に怒って、勝手に悲しんで――――わたしは何を被害者面していたんだ。姫君を変えたのは、姫君にこんな真似をさせたのは、他でもないわたしじゃないか。

「あの人の嘘にあんなに泣いたのに、わたしは雲雀に同じことをしたのね。ごめんなさい。本当にごめんなさい。」

「すみません」

 ポロポロと零れ落ちる涙を拭おうと、わたしは焦って懐から手ぬぐいを出した。それと同時に薄桃色の紙が懐から飛び出して、姫君の前に落ちる。紙は姫君に拾われて、そのままギュッと折り曲げられる。直後、姫君が顔を上げてわたしを睨んだ。


「なぜあなたがこの手紙を持っているの?」

「それは――――」


 巧い言葉を探す猶予もなく、姫君に押し倒されて、体を押さえつけられた。間近で姫君の怒った顔を見て、母に叱られたような気持ちになった。下手な言い訳をして悪さを隠すことが、何よりも彼女を傷つける。それが自分にとって何よりも辛い事だから、例え彼女を傷つけるとしても、何もかもをありのままに明かすことにした。


「簪を抜いてもらえますか。」

わたしを押さえつける手を優しく除けて、姫君に背を向ける。意味を分かっていない姫君に、それで全てが詳らかになると伝えた。正体が露見すれば、きっとわたしは殺されてしまうだろう。だが、姫君に殺されるのならそれでもよかった。


姫君の手がわたしの髪に触れる。その手が簪に触れ、後ろ頭で結った髪が揺れるのを感じた。その直後、簪が引き抜かれ、髪がほどけて広がった。


 直後、後ろで怯えたような悲鳴が微かに響いた。

今、姫君はわたしを化け物のように見ているのだろうか。時間はたぶん無い。いつか、姫君が叫びを上げるだろう。その前に、全てを明かさねばならない。そう思って、私は振り向かず、目の前にある虚空に向かって話し始めた。


「夜叉の首を取りに山城へ行き、夜叉の首を確かに斬り落としました。

夜叉が死んで、宴をして、眠って、雨が頬に当たって目を覚ますと、全てがおかしくなっていた。鏡を見たら、鬼の姿に変わっていたんです。

 仲間の皆が俺に斬りかかってくるから、殺されないように必死に逃げ延びました。逃げた先では追い出されて、どこにも行く場所が無くなって、どうすればいいか分かんなくなって、

でも、そんな時、その手紙を見て、俺は貴女に会いに来ました。

きっと怖がらせるって分かっていたのに、こんな醜い姿を見せて申し訳ありません。どうやってでもお詫び致します。

貴女がそう決めたなら死んだって構わない。俺は――――」


「こっちを向いて」

「嫌ですッ」

「こっちを向きなさい!」

強引に右肩を引かれて、身体が後ろに向くと、恐い顔で姫君が怒っていた。手がわたしの頬に伸びてくるから、頬を張られるんだと思って目を閉じると、指がわたしの目元に触れて何かを拭った。

 

「死んでもいいなら、どうして泣いているの?」

目に溜まった温い感触が頬を伝って落ちていく。それが涙であると気づいたとき、わたしは、初めて自分の気持ちが分かった。


「死んでも構わないのは本当です」


素早く頬に迫ってくる手を左手で受け止めて、そのまま握りしめる。その温かい感触に誘われて、言わないでいようと思っていた言葉が、胸を突いてこぼれる。

「でも、あなたに死ねと言われるのは死ぬよりも辛い」

すると、恐かった顔が、花のように変わった。花びらが露に濡れて、その頬を伝って流れ落ちていく。

「生きていて良かった…」

 泣きながら嬉しそうに笑っているその人を、強く、強く、抱きしめた。

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