第7話 変転2
「鬼が出たぞッッ――――!」
その叫びに対して、自分は今何かをしなければいけないことは分かっている。だが、何をすれば良いのかが分からない。
雨の激しさが増した。濡れた体が冷えてきた。
温かい場所はどこだろうか。
体を拭く布は?
雨宿りできる屋根は?
違う、そんなことを考えている場合じゃない。俺のやるべきことはもっと、他にあるはずだ。だが、それは一体何だ。
考え事の最中、背後で何人かの人間が草を踏む音が聞こえたので振り返った。その結果、視界に入ったのは、三人の武者が俺に斬りかかろうと走って来る映像である。
思考が全て飛んだ。俺はその映像が走るのをぼんやりと眺めた。三人がそれぞれ振るった刀がゆっくりとして見えている。ついに、刃先と自分の皮の距離が一寸にまで縮まる。このままでは取り返しが付かない事になるというのに、頭も情動も理解しない。だから体が動かない。しかし、現実の時は動き続けている。刃は更に近づいていた。
死の瀬戸際に立っているというのに何もしないでいると、いよいよ戻れない所まで追いやられてしまった。もうじき刃は皮に触れるだろう。俺の命を刈り取るその刃はどんなものだろうと思って刃を見た。網膜に焼き付いたのは刃の鈍い光だった。その光を見て、本能が死を理解した。そしてようやく思考と情動が戻った。
何をやっている。俺は侍であるのに、なぜ、こんな状況の中でまだ刀を抜いていない。ああそうか、ボケた頭のせいで、本能的な動作すら、上手く取れなかったのか。刃は常人には躱せない速度を持っていた。これは普通死ぬなと思った。だが、頭の隅で理解していた。俺がまだ死なないということを。
俺はその刃より速く動いて、刃を全て避けた。
避けた後振り返ると、背後には、そこには俺を切り損ねた武者共が唖然としたまま突っ立っていた。自分の刀を見つめているのだった。
その後すぐに周囲の息遣いが変わった。目を見開いて息を呑み、俺を見つめたまま固まっている。俺自身も、自分が今何をしたのか信じられなかった。
自分が本当に変わってしまったことをようやく自覚した。まるで自分が化け物のように思えた。胸の奥が焦燥で焼け付く。背筋に震えが走る。これはきっと彼等と同じ感情だと分かるから、胸の奥に焦燥を抱えながら、必死に笑みを作って彼等の方へ歩いた。
敵意はないこと、化け物じゃないこと、お前たちの仲間だということを表したかったのだ。
だが誰も、俺を真っ直ぐ見ない。誰も俺のことを分かろうとはしない。
俺が一歩歩くたび、奴らは俺から二歩離れていく。そのたびに胸が切られるように痛んだ。
俺は皆へ訴えた。
「俺は、雲雀だ……皆は、夜叉を討った空木雲雀の名を忘れたのか……」
しかし、喉から出た高音は虚しく空に消える。誰も俺に向ける目を変えはしない。
そのまま、もう一度声を張ろうと口を開く。
すると突如として武者の群の中に赤い光が現れる。
その後すぐに俺のそばを銃弾が過ぎていく。遅れて銃声が聞こえた。赤い光が見えた所に霧のような硝煙がかかっている。
硝煙はすぐに風に流され、銃を構える武者が見えた。昨日、夜叉を討った俺に礼を言って酒を注いだ者であった。
焦燥で不安定な心がカッッと怒りに染まった。
「貴様の敵を討った恩を忘れたのかッッ!」
地面を深く抉ったような感触を足に感じた。少し遅れて、頬に風の当たる感触が生じた。数十メートルほどあった距離が数歩で縮まる。1秒も掛からなかっただろう。
俺が勢いのまま奴を蹴ると、奴は数メートル後方へ飛ぶ。
奴の手から離れた火縄銃が今、宙に浮いている。
ああ、しまった。だめだ、もう遅い。
気付いたときにはもう、幾つもの刃が迫っていた。だから、反射的に刀を抜いた。
誰かの血が俺にかかる。誰かの呻く声が響く。俺の刀はただ他の刀を折っているだけなのに。
誰かを殺傷する気など微塵もなかった。ただ、刃の雨から身体を守るには、俺も刀を抜かざるを得なかったのだ。
刃の雨が止むと、俺の周りから人がどいた。身体は血に濡れていた。周りには、刀傷に呻く武者が数人居た。どれも奴らが味方同士で傷つけ合った結果だった。
なのに、皆は俺を疑うように見る。
その視線に押されて、俺は後退しながら訴えた。
「俺じゃない!俺の刀は誰も斬ってはいない!」
話を聞かず、数人が銃口を俺に向けた。話を聞いてくれと訴えようとしたときだ。
突如背後から刺すような気配がした。急いで振り返ると、眼前に鋭い刃が迫っている。
その刃を刀でいなして、その刃の主を見たとき、血の気が引いた。俺を斬ったのは副将の清正だった。副将が遂に俺を殺そうと動いたのだ。
「貴様、雲雀を喰ったかッッ!」
「違う!俺が――――」
もう、止まらない。清正は俺の話など聞く状態ではない。清正だけではない。隊の皆が俺を殺そうとしている。
清正の背後に、大将の小十郎がいる。小十郎が、上げた手を振り下ろして隊に叫ぶ。
「鬼を討てッッ!」
ああ、戦が始まってしまった。
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