第11話 放浪 3

 山の岩肌に腰を下ろして夕陽が沈んでいく様を見ていると、ひとりでいることが悲しくなる。

この悲しさは俺が死ぬまで消えないのかもしれないと、もうすぐ来る夜を待ちながら思う。日が昇ったのを見てからずっと、ここで夜をただ待っていたのに、夜が来ることが怖い。

この感情を紛らわせるために何処かへ行きたいのに、何処へ行けばいいのか分からない。もう3日もこんな調子でたまらない。


 日が落ちると、すぐに辺りは暗くなり冷たい風が吹くようになった。この風を防ぐのに、ボロボロの着物一つでは足りないようで、ふるふると身体が震えてくる。震えが傷に障って痛い。


 辺りがすっかり闇に飲まれた後もずっと膝を抱えて丸まっていると、俺がいる崖の下に広がる森の中に、ぽつぽつと丸く青白い火が現れ出した。青い火は等速で進みながら何処かへ向かうようである。向かう先は物の怪の国だろうか。夜叉の城を落としたから、散った物の怪たちがここら辺りに身を寄せ合って生きているのだろう。あいつらは俺を恨んでいるだろうし、この辺りにいるのは危険かもしれない。


 早くこの場を離れた方がいい。頭で確かに分かっているのに、腰が上がらない。あの灯りが俺を惹きつけるのだ。あの灯りが、もしかしたら、人の世で生きられぬ俺を照らしてくれるかもしれないと。


少しだけ、あともう少しだけ近くで見たい。俺は崖を滑り降りて、森の中へ入った。草の陰に隠れて、少し遠くで動いている一つの青い火を見つめた。火は次第に近づいてくる。


獣道のわきに生える木々の陰に隠れていると、いよいよ青い火が俺の前を通る。木々の陰からその青い火の正体を見るために、少しだけ顔を出して見ると、青白くバカでかい顔をした老人が突っ立っている。老人は俺の隠れている木々のそばで立ち止まると、突然俺の方を見る。


その顔には眼球がなく、三日月のように開いた口の奥は真っ黒に染まっている。老人から血の臭いがする。コイツは人を喰うのか。

老人が俺の方へ手を伸ばしてくる。その手から逃れつつ、老人の前に出て行く。老人から漂う血の臭いを嗅いで、俺を恨んだ女の顔が浮ぶ。思わず、吐きそうになる。


 あちら側へ行ってはいけない。人を喰ってはいけない。そんなことをすれば、俺は心まで、人では無くなってしまう。本当に、みんなにとって化け物になってしまう。


胸の奥に生まれた不安感をギュッと胸を掴んで押さえていると、その口がゆっくりと開いた。

「人も、角を生やすのか」

 バカでかい口を広げて笑った。突然近づいてきた。そして、また口を動かした。

「その綺麗な顔を食べさせておくれ」

俺を覆うように上から見下ろしていた老人の顔が、俺の頭部を喰おうと口を開けて迫ってくる。

その顔を躱しながら、このバカでかい頭を砕こうと拳を握ったとき、

「おい、何をしている」と老人の背後から声がした。


突如老人の頭が止まったので、そのままその頭を破壊しようか迷ったが、老人の背後にいる存在が気がかりで、殴るのをやめた。

 老人の背後から現れたのは、大きな狐である。尻尾の先に黄色い狐火をつけている。どこかで見たような気がして、すぐに思い出した。夜叉を斬ったとき、俺達を導いた狐である。


狐は俺を見て、巨頭の老人に耳打ちをした。鬼になってやけに耳が良いから、狐の言葉を聞き取れた。

「あれは、夜叉を斬った人間だ。」

耳打ちの後、巨頭の老人は俺を怯えたように見ると、突如逃げるように藪の中へ消えていった。その後に一人残った大狐は、焦りもせずに俺の前から離れていく。


「待てッ」

 俺が呼び止めると、なんだと言うように目を細めて俺を見た。少しも俺を怖れてはいない様子であるのが奇妙で、不思議だった。そして、狐からは血の臭いがしなかった。


「なぜ、お前は俺を怖れない。俺を怖れないのなら、なぜ、夜叉の敵を取ろうとしないのだ」

「お前は人を喰わない物の怪を斬らないだろう?ああ、それと私は人間が嫌いだが、夜叉を斬ったお前には感謝しているのさ」


 訳が分からず首を傾げていると、狐は俺を馬鹿にしたように目を細めたまま笑って言った。

「夜叉は私の妻をさらって人質に取っていたから困っていてねえ。奴の元に侍いながら連れ戻す機会を探っていたとき、ちょうどお前たちが忍び込もうとしているのを見つけたのさ。どうやらそこそこに強い武者がいるようだったから、夜叉とぶつけてやれば隙が出来て連れ戻せると思って奴にけしかけてみた。まさか首を取っちまうとは思わなかったが、どちらにせよ、お前は私の役に立ってくれた」


 話し終えると興味が失せたようにもう一度前を向いて歩き始めた。俺が狐の後を追おうとすると、狐の背中から冷たい声音が聞こえてくる。


「人が、あやかしの世で生きられると思うな。人を認めるあやかしなど一人もいやしないのだからねえ。」


 俺はその声に、そうかと返して、立ちどまった。その先、俺は何も言えなかった。俺と狐の間には大きな断絶があると知ったからだ。あの後ろ姿を追っても、俺はまた追い返されるか、殺されるかで何にもならない。結局、俺は何処へも行けやしないことが分かった。人の世にもあやかしの世にも生きられないのなら、この現世に俺のいる場所は無い。そうか。そうか。俺を分かってくれる奴はもう誰もいないのか――――


「おい」

顔を上げた俺の前で、狐は苛立ったように細い目を開けて俺を見ている。ずんずんと寄ってきて俺を見下ろして言う。

「その姿で泣かれると鬱陶しくてかなわない。」

「泣いていない!」

「これをお前にやる。私は人間に借りを作るのが嫌いなのさ。」

狐は俺にかんざしを渡してきた。


これはなんだと聞くと狐は目を細めて俺に言う。

「このかんざしには私の力が込められている。髪を結うときにこのかんざしを挿せば、お前の角は消えて見えるのさ。」

 狐は俺の掌にかんざしを置くとすぐに踵を返して去って行く。俺が礼を言うと、鬱陶しそうに手を振ってどっかへいけと伝えてくる。


 俺はそのかんざしを握り締めて、北極星に向かって歩き始めた。暗い闇の中をずっと歩き続けていると、山を抜けた。山を抜けた後も北西へ進み続けると、いつの間にか東の空で日の出が始まっていた。


 日の光に初めて照らされて映えたのは、草や土しか無いような寂しい平野の風景である。その風景の中を、宛てを探して歩き続けている内に、光は、薄暗く沈んでいた遠景までも照らし出した。


今、遥か先の遠景の中に、村と、野山が見えている。

アレは俺の故郷である。

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