第10話 放浪 2
南からずっと真っ直ぐ歩き続けてようやく村まで行き着くことができたのに、村の外周が堀で囲ってあって入れない。それだけじゃなく堀の向こう側にも簡素な柵が立ててある。ただ、柵の方は、風に揺られて所々倒れているのを見ると簡単に越えられそうである。問題は堀だ。
どうにか向こう側に行けないかと思って堀の中を覗いてみた。だが、中は雨が溜まって川のようになっており、越えるのは厳しそうだ。橋を探すしか無いようだ。だが、一体あとどれだけ歩けるだろう。俺の体力が持つだろうか。心配を他所に、探してみると橋はすぐ傍にあった。この雨が視界を悪くしたせいで見落としていただけだったのである。
橋を渡りそのまま村の中へ入る。村の入り口には守衛がいることが多いが、この雷雨のせいか誰もいない。
入り口から一本の太い道が奥へ続いている。道には入り口のそばに支点ができている。その支点から、東西へと細い分かれ道が伸びている。
その道に沿って幾つもの建物が列を成して並んでいるが、商店だろうか。夜中に商をする人がいないのは当たり前だが、品台が置いてあるだけの誰もいないあばら屋が東西に伸びる道に沿って列を成して並んでいる光景は淋しい。
人に会いたくて北へ少し進むと、西側は広い農地に、東側は人家の集まりに光景が変わった。農地で何を育てているのかは暗くてよく分からない。そして、どの家にも明かりはない。
村の中央で交差する十字路を東へと進んで人家を目指した。人家の郡の中に入り込んで、誰か起きてはいないかと、亡霊のように家々の間をさまよった。結局どの家にも明かりはなかった。なので誰かいないかと声に出して、家の戸を試みに叩いてみた。何度か叩くと、家の奥で生き物の動く音がした。その足音は引き戸の方へ近づいてくる。
足音が止まり、家の戸が開くと、灯りを持った中年の女が出てきた。眠そうに目をこすりながら、「あんた誰だい」と言って灯りを顔に近づけてきた。
薬をくれないかと言おうとして、すぐに口を噤んだ。女の顔が瞬く間に青ざめていくのを見たからだ。すぐに事情を述べようとしたが、できなかった。すぐにぎゃあと叫び声を上げて瞬く間に家の中に引っ込んでいった。そして、家に明かりがついた。家の中で女が夫を必死に起こす声がした。
女の悲鳴のせいか、周りの家々にも明かりが灯った。周りの家の戸が開いて、中から人が出てきた。初め「なんだなんだ」と野次馬のように呑気に近寄ってきたのに、俺を見ると震えた声で「鬼だ鬼だ」と騒ぎながら逃げていくのだった。その悲鳴は、俺を中心として、円状に村中に伝わっていく。あっという間に村中の人家に明かりがついて、いよいよ大きな騒ぎになる。
今、村中から、「逃げろ逃げろ」という悲鳴が上がっている。そこかしこで、人々が駆け回る足音がなっている。
誰かに聞いてほしくて、待ってくれと訴えた。しかし、かすれて上手く出ず、声は雨音に消えて、そばから人は走り去っていく。
声が届かないから、近くにいた女を追いかけた。だが、足がうまく動かないせいで土の上に転けた。女に追いつきたいのに、体がうまく動かない。起き上がれない俺を不思議に思ったのか、女は立ち止まって俺を伺うように見ている。なんとか、壁伝いに起き上がろうともがいていると、左足から血が滲んで着物が汚れた。女は俺の血を見て驚いたのか、急いで俺から離れていった。
手近にあった壁に寄りかかりながら立ち上がっているうちに、村中から聞こえていた悲鳴は消えた。あの駆け回る足音もチラホラと聞こえるばかりになった。
どうしたのだろうか。と不思議に思った時、どこかで、女の声がした。その声は、俺が負傷している事を、誰かに伝えているようであった。その途端、周りにあった目線が一斉に俺の体に集まって、その後足元に滲んでいる血に向くとバラバラと散逸した。
その直後だった。
村中のいたるところから、村人が顔を出した。そのまま、俺の方へ近寄ってきた。その数はどんどんと増えていく。そして、彼らの手には鍬や包丁や松明などといった武器が握られている。
皆、何かを企んでいるような影のある表情をしている。恐ろしくなるほど冷たい眼と真一文字に閉じられた口が、その心を物語っている
誰も声を発しない不気味な静寂が辺りを支配した。もしや物の怪の里に迷い込んだかと錯覚したほどだった。
人間はかくも恐ろしいのか。
心の震えが、手足にまで伝わってきている。その震えを押さえつけて、肺の空気を全て吐き出した。そして、頭の中の迷いを振り払った。彼等は、人間なのだ。同じ良心を持つ同胞だ。ならば、事情を話せばきっと、きっと、分かってくれる。そう、信じている。
俺は訴えた。
「俺は鬼じゃない、人間だ。知らぬ間にこんな姿に変えられていたんだ。」
だが、彼らから返ってきたのは石の雨だった。初めに飛んできた石が背中に当たった。折れた肋骨に激痛が走った。よろけて踏ん張った左足に鋭い痛みが走って思わずうずくまった。うずくまったまま動けなくなって、石を避けることができず、俺に降ってくる石の雨から頭を庇って伏せたまま耐える続ける。もう一度話を聞いてもらうためだった。俺を、人だと認めて欲しかったから。
身体に石が当たるたび、痛みと共に惨めな思いがこみ上がってくる。情けない思いが胸に広がっていく。こんな姿、姫君が今の俺を見たらなんと思うだろうか。
姫君の失望したような表情が、暗い脳裏に浮かんできた。その顔が鮮明になっていくほどに、胸の奥がキリキリと痛んだ。折れた肋骨が神経に触ったときの痛みより苦しかった。泣きそうになるのを、唇をかみしめて堪えた。
突然村人の誰かが叫ぶ。
「殺せ!殺してしまえ!」
その叫びはすぐに広がっていく。熱狂が大きくなる。その熱に駆られた男たちが、歓声を浴びながら、鍬や松明を手にして集まってくる。
一人が肩に乗せた鍬を俺に振り上げた。その男は、血走った眼で俺を睨みながら、恨みに狂った唇に正義に酔った不気味な笑みを浮かべていた。
その顔で、ようやく俺は殺されるのだと分かった。
賢しい企みも、無垢な信頼も何もかもが死を前に意味を成さない。
死を前に強がることなんて出来なかった。生を惜しまずに居られなかった。心が死にたくないと叫ぶ。眼から、久しく流して来なかった涙が溢れ出てくる。俺は必死に請うた。喉から出たのは小鳥のさえずるようなか弱い声だった。
「殺さないでくれ……お願いだ、お願いだから……」
男から蹴られ追い払われても、何度でも、何度でも、その足に縋って頼んだ。情けない、情けないと辛くて泣きながら、それでも頼み続けた。涙が、男の服に染みこんでいくのを見て、今さらに思い出した。俺は餓鬼の頃から本当は泣き虫だったのだ。
もう一度鍬が高く振り上げられた。俺を蹴った男が、もう縋ってこないように振り上げたのだ。鍬が恐ろしくて、丸まって頭を押さえた。真っ暗な視界が怖くて、これから身体に起る痛みを想像して震えた。痛みに泣かないように息を止めて鍬が刺さるのを待った。
心の中で、死までの時を数えた。もうじき死ぬことを受け入れようと必死だった。それはいつまでも出来なかった。そして、鍬もいつまでも身体に刺さらなかった。
何が起こったのか混乱した。顔を上げた瞬間、鍬が振り下ろされるんじゃないかと恐かった。顔を上げるか迷いに迷い、遂に恐る恐る顔をあげてみた。すると、目の前にあったはずの鍬は時が止まったかのように空中で静止したままである。
鍬を握っている男を見て気が付いた。遠方では、未だ熱狂が渦巻いている一方で、俺のそばにいる人間の熱はすっかりと冷めている。
そばに立つ男は、暗い表情を浮かべて鍬を下ろした。俺と顔が合うとその顔をサッと背け、それから逃げるように群衆の中に戻っていった。
代わりに別の男を見た。その男も同じ表情をしていて、同じように俺から顔を背けて逃げていった。
周りを見て、村人の俺を見る目が殺意から憐憫に変わっていることに気が付いた。
俺が誰かを見つめると、一様に胸を痛めるようだった。皆はそれぞれ隣にいる人間を見て、お前が行けよと促しながら、少しずつ俺から遠のいていく。そんな群衆の中から、老人が一人出てきた。老人は傷ついた俺を見て、こみ上げてくる想いを抑えるように目頭を押さえた。そして、厳しい目をして俺に言い放った。
「この村から出て行きなさい。この村に鬼を入れることはできない。」
「お願いです。俺を救って下さい」
こんなボロボロの身体を放置すればきっと死ぬ。彼らだって本当は追い出せば、俺が死ぬことなど分かっているはずだ。
俺は躊躇っている老人に向かって言った。
「救って下さい。生きたいんです。どうしても、生きたいのです。お願いです、お願いですから、俺を生かして下さい」
老人は首を横に振った。心の中で何かが切れるのを感じた。
「だったら殺してください。今追い出せば俺が死ぬ事なんて分かりきってるはずだ。俺は自然に死ぬんじゃない。あんたらが殺すんだ。ならちゃんと俺を殺したことを背負えよ。あんたらの手を汚せよ。綺麗な手で飯を食うなんて許さない。」
老人から返事は帰ってこなかった。ただ黙って、俺を殺せるか悩みながら、俺の双眸から流れ落ちる涙を見ているのだった。しばらくそのまま立っていた。皆がその老人の答えを待っていた。その答えは不意に出た。
「この村から出て行きなさい」
やはり先ほどと同じ答えだった。
殺されるまで動くまいとしていると、村の中からポツポツと憐憫が声に変わって行き交うようになった。
「傷がひどいわ」
「少しくらいいいんじゃないのか」
「可哀想よ」
「薬屋がいるだろう。何とかしてやれよ」
「医者なのに怪我人を見捨てるのか」……
行き交う声は老人に届いて、老人は俺を見ながらしばらく思案して、しかし、また厳しい目に戻って言うのだった。
「今すぐこの村から出て行きなさい。」
その後俺に背を向けて群衆の中に去って行く。去り際に一人の女のそばに寄って言う。
「村の外で、あの娘を手当てしてやりなさい」
その後、俺は何処からかやってきた村人たちの持っている担架に乗せられて、村の外へ運ばれた。村の外で、麻布を敷いた所に寝かされた。動けない俺のそばに先ほど老人に指示された女がやってきた。近くで見ると、三十路くらいだろうと検討がついた。
女は俺の傍らに座ると、俺を運んできた男共に村へ戻るように言う。男共は女のことが心配だと口々に言って逆らってじっと俺の方を見ている。そのまま少し粘っていたが、結局三十路の女の目線に絶えきれず帰って行く。
女は所々破れたてボロボロになった着物を俺から取り、俺の着ていた鎖かたびらを脱がすと、清潔な布を水に浸けて、その布で俺の傷を拭いた。何度か傷を拭き綺麗にすると、塗り薬を俺の銃創に塗抹してきた。無遠慮に傷に触れるものだから、あまりにも痛くて、喉の奥から悲鳴が出る。急に大きく息を吐いたものだから、肋骨が神経に触れてさらに痛みが走る。
女はそんな俺の様子を冷たい目で見つめながら、機械のように俺の身体に塗り薬を塗抹していった。最後に包帯を巻くと、俺の傍らに座ったまま俯いて黙り込んだ。
傍らに置かれた灯りの陰になって、彼女の顔色がよく見えない。ただ、見えなくとも、彼女の表情が明るくはないことは分かる。その訳を知らない自分は何を言っていいか分からないから、不用意に声を掛けるのを躊躇った。しかし何も言わぬわけにはいかない。
だから、
「ありがとう」と言って、笑って見せた。
しかし、俺が呟いた言葉が、彼女を一瞬にして鬼に変えた。
「私の家族を奪ったくせに。私の夫を殺したくせに!人殺しが生きようだなんてふざけるなッッ!」
2本の手が首に触れる。首が彼女の手によって絞まり、空気が肺に届かない。なのに身体が動かなくて逃げられない。ただ彼女が叫びながら首を絞める光景が見えるばかりだ。
「お前なんか生きてちゃいけない。死ななきゃいけない。私がこの手で殺してやる。この手でッ、お前の息の根を止めてやるッッ!」
死にたくない。だから、首から彼女の手をどけようとしているのに彼女の手が首から離れない。
「違う…殺してない…」
「お前の仲間が殺したのよッ!お前が殺したようなものよ!」
「離して…」
「黙れッ」
俺は力を振り絞って女の頬を張った。女は驚いて退いた。退いた後、肩を上下させて息をしている俺のそばで泣き始めた。両目を震えた手で押さえて泣きながら、時々夫の名前を口にした。
脱がされた着物を女の傍らから奪って胸の前に抱いていると、泣いていた女は呻くように俺に言う。
「本当はお前なんか治療したくなかった。家族を殺されたこともない奴がお前を可哀想だって、治療してやれって言うのを聞いて死にたくなった。だけど、私は医者だから治療するほかなかった。」
俺は立ち上がって彼女の前から逃げ出した。逃げるとき、振り向いて女を見た。女は、いつまでも呻いていて、追いかけては来なかった。しかし、その瞳はいつまでも俺を捉えて離さない。
ああそうか、俺はもう二度と人の世に戻ることはできないのだ。
胸の奥で漠然と抱いていた思いが確信に変わる。
いつの間にか雨は止んでいた。
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