第26話 歌合わせ 1
紫陽にそこにいなさいと言われたので、部屋の隅で紫陽の準備が終えるのを待っている。ちょうど今、侍女に手伝われて赤い唐衣を着たところだ。
次は化粧と髪結いか。
今日行われる歌合について事前に様々な注意を受けている。
例えば、歩き方、話し方、目線の動かせ方や、笑い方、声の出し方、座り方、など細々と。歌合わせに参加するようにと言われてから今日までの2ヶ月間、毎日指導を受けてきたから、たぶんわたしも表に出せる一端の女になったろう。
ただ最近、ふと「どうして以前、男だったか」と考えている時がある。よろしくない。これは恐ろしいことだ。気をつけよう。
聞いた話によると、今日の歌合わせは極めて特別な行事だそうで、城全体の人員が、部屋の設え、調度の用意に駆り出されている。わたしも縫殿寮の女嬬として、貴人が歌合わせで着る服を作るのに関わったが、使われた呉服は極めて上等なものだった。
特に小宮の主様やその奥様、左大臣や右大臣、蔵人別当やら大納言など、最上位の方々が着る服の値は億を超えるという。
衣装を作っているときにその値段を聞かされて初めて、紫陽の侍女の中級女官が「お前の微かな所作の一つが紫陽様の評判に影響するのだ」とわたしによく言ったのが大袈裟ではないのだと気付かされた。
わたしのような身分の者がいたら取って食われやしないだろうか。上流階級の社交場などわたしのような庶民からすれば魍魎の住処みたいなものだから、きっとお前は入っちゃいけないよと口を酸っぱくして言われて然るべきものなのに、一体なぜ紫陽はわたしを仕女に選んだのか。
部屋の隅でいつものように考えていると、女官が一人そばにやってくる。こちらへ来るようにと言いながらわたしの手を引っ張ってくるので、それに従って付いていくと、着付け係が赤い唐衣を用意して待っている。あなたもこれを着るようにと促されたのでその唐衣を受け取ろうとすると、彼女らは差し出したわたしの手を無視して勝手にわたしの着物の帯を解き、パッパとわたしから着物を剥ぎ取った後で、人形に着せるようにわたしにその唐衣を纏わせた。
今度はわたしの髪を留めている簪にその手が伸びてきたので、わたしは取られまいと手で簪を覆った。
「かっ髪は大丈夫ですから」
「もっと華やかに結わなくちゃ」
「わたしは仕女ですから地味な方がいいんです。」
「……なら、化粧も薄くしておくけれど」
せっかく歌合わせの場に行くというのに本当に華やかじゃなくて良いのかと聞かれたから、紫陽の邪魔になるから地味な方が良いと返した。すると、どこか感心したように頷き合って、わたしの方を見ると親しげに笑いかけてきた。
彼女らから化粧を施された後、今一度暇になって紫陽の髪結いを見ている。後頭部で一つにまとめた髪を二つに割いて、左右対称に輪を作ると、その二つの輪を中心で束ねる。束ねるために使った赤いリボンがしだれ桜のように背中へ垂れて、それを見ていると猫のように遊ばれてしまいそうだ。
まとめた髪は、金の装飾で彩られていく。凜とした顔も耳飾りで飾られていく。あれこれと慌ただしく動く侍女たちの中心で紫陽は一人静かに鏡を見つめている。
無防備に晒された白く柔そうなうなじを見ていたとき、部屋の外から紫陽を呼ぶ声がした。その声にもしやと思いながら聞こえた襖の方へ歩いて、襖をゆっくりと開けてみる。誰であってもしっかりと対応してみせるつもりだった。
そして声の主も分かっていた。
なのに、襖を開けて、至近で姫君と相対したとき、わたしは頭が真っ白になった。
赤い唐衣を着ている。頭の左右に愛らしい房を二つ造り、うなじと耳の後ろから髪を垂らしている。あの綺麗な顔に色っぽく化粧が施されて艶やかに見える。驚いたようにパチパチと瞬いている。そんな姫君の視線に射貫かれたとき、頭の中にあった全ての思考は無に帰して、唐突に起きた鮮烈な恋心に囚われてしまった。
「雲雀、御挨拶しなさい」
紫陽の声にハッとして、わたしは姫君に頭を垂れた。後ろから歩いて来た紫陽も、姫君の前に歩いてくるとわたしと同じように頭を下げた。
「百合様、大変麗しゅうございます。」
「ありがとう。紫陽、あなたを呼びに来たのだけれど……」
姫君はわたしをチラッと見て、
「どうして雲雀がここにいるの?」
と紫陽に尋ねた。
「雲雀を侍女として歌合に参加させるつもりです。」
「雲雀は……行ってはいけないわ。絶対ダメよ。」
「侍女として参加すると言いましても、ただ歌合わせを見学するだけですので」
「もしも誰かの目に留まって話し掛けられたら大変よ」
「応対の作法は身につけさせましたから礼を失することはないと思います。頑なに否定なさらないで、認めてあげてはくれませんか?」
「もしも和歌を贈られたら」
「返歌の一つくらい、今の雲雀なら詠めますわ。」
「歌合わせはいわば上流階級の社交場よ。雲雀はただの女嬬なのだから行くべきではないわ。」
「百合様のおっしゃることはごもっともですが、例えば歌合わせ後の宴に呼ばれる楽人には身分の低い奏者もおります。それに、見学する侍臣は少々身分が低くても差し支えはないはずです」
紫陽がわたしを替えないで、参加を反対する姫君に説得を試みてくれることは嬉しかった。だけどそれ以上に、姫君から反対されたことが悲しかった。わたしが姫君に認められるためにした行動は姫君にとって気に入らないものだったのだ。
「最上位の方々からすれば、侍臣の身分など多少低くても気に留めることなどなさいませんわ。」
「それに、雲雀は綺麗ですから」
「だからダメなのよ……」
びっくりして目線を上げると、しまったというような顔でわたしの顔を見つめ返してくる。隣にいる紫陽が姫君に言葉の意味を尋ねようとしたのを遮って、
「絶対目立ってはいけないわ。絶対に」とわたしに釘を刺すと、紫陽を置き去りにしたまま、用は済んだと言わんばかりに姫君はさっさと帰ってしまった。
なので今度はわたしたちが姫君を呼びに行って、そのまま歌合わせの行われる清涼殿へ向かった。
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