<31> 悪意の正体
ボリスの片手はロナの頭を撫で、ロナの手は平から温もりを我が身に送るようにしっかりとボリスを抱えていた。ボリスは背を向け、ロナはボリスの影になってふたりの表情を伺うことはできないが、全身から悦びが溢れている。
弟分であり今や従者となったボリスと、王妃の従者でこの短い間に幾度も世話になっているロナが結ばれたことはこれ以上なく嬉しいことだ。
だが、抱き合うふたりの姿に先ほどの出来事を思い出してエタはまた蹲った。
胸が激しく鳴るのは目の前の熱い抱擁のせいで。だから違うから。
「さっきも、そうやってしゃがみ込んでたよね?ちがう、ちがうって呻きながら」
ロナと抱き合うのはやめ、背から肩に手を回して寄り添ったままボリスが尋ねた。ちろりと上目にそれを認めたエタは真っ赤に染めた顔を両手で隠す。
もちろん隠しきれるはずがなく、微かな呻き声も混じって、しっかり先ほどを再現している。
「パウラ様は気配を感じられたからロナを寄越してくれたのだと思うけど、エタの暴走の原因は、まずご令嬢のやっかみにあるんだ」
ボリスは今回の事態についてあらましを説明した。
王太子の客人であるご令嬢が、エタに対する嫌がらせのために、大切な品物——ロナが着せた青いワンピース——を切り裂いたこと、それがロナの姉の形見だとつい口にしてしまったこと、そこからエタの魔力が暴走し、さらに流れ込んだ神様の気配と見せかけた悪意に唆され、聖錫を呼んで破滅を引き起こすところだったこと。
破滅を止めたのが外から流れてきた祈りで、すっころんで正気に戻ったかと思えば、蹲って唸り始めたこと。
そのエタはボリスの説明に恥ずかしさが増したのか、蹲ったまま窓際まで移動してしまっている。
「・・・大切に抱きかかえて頭を撫でた、とか」
ロナが思案して出した言葉に、エタはびくりと肩を揺らした。
主が機嫌を損ねた噂話であり、正解を導いたことに素直に喜べない侍女は、どうしたもんかと傍の恋人を見上げる。
ボリスは大股で近づくとしゃがみ込み、耳の先まで赤く染まったエタと目線を合わせ、優しく肩を叩いた。
「吐いちまいなよ。エタ。悩みはみんなで解決するものだろ?」
絶対に面白がっているのが分かったロナだが、それに気付かないほど追い詰められているエタを助けてやりたい一心で同調した。
「そうですよー。他人が聞いたら何でもないことかもしれませんよ?」
すぐ隣にしゃがみ込んで、もう片方の肩を叩く。挟まれた格好のエタは、お尻を床に付け、立てた膝を抱えて下唇を少し震わせながら話し出した。
悪意に体の自由を奪われた。
神様の気配が部屋に満ちた時、同時に流れてきた神聖語が啓示だと思った。いや、考えるよりも早く精神は侵され、馬鹿げた不平等な世界を破壊したいという欲求を引きずり出された。
誰かの大切な思いを踏みにじる者たちが幅をきかせる世界。
下らないこの世界に破滅を。
自分には可能で、やっと聖典とはっきり結びついた、いや気づかぬ振りも仕舞いだと自覚させられた。
なけなしの自我では裡へ入り込んだ悪意への抗いが叶わないと、破滅が避けられないと諦めかけた時、目の前で白い手袋が振りかぶられた。
軌道は頭頂を狙っていた。
同じ場所を撫でた手の平を思い出して、考える前に体が咄嗟に避けていた。
たったそれだけで呪縛は完全に破れ、我に返ると暗闇の中で血塗れのボリスと倒れた令嬢たちが目に入り、回復と光球の魔法を使った。
部屋には悪意の代わりに温かな祈りが漂っていた。自分を、世界を助けたほどの祈りの主はあの人で、顔を浮かべれば同時に、抱きしめられた感触を思い出した。
「背に回った手も、頭を庇ったもう片方も、それから押し付けられた胸の、その胸板の向こう側の鼓動まで思い出されて、こんなに、こんな風に考えてしまうのはもう恋なんじゃないかとか、浮気みたいなもんじゃないかとか、彼やおっちゃんや王妃に申し訳が立たないとか、ごっちゃになって」
「それで蹲って唸ってたの?」
「うん」
ボリスはロナと顔を見合わせた。また真っ赤な顔になって羞恥で水分が多めの目を伏せたエタが——怖ろしいことに——とても可愛く見え、素直に恋人に白状した。
「ごめん、ロナ。今エタのことが可愛いと思った」
「いいんです、ボリス。私も思いましたから」
エタの表情に感化されてふたりとも顔だけでなく全身が熱くなった。お互いを抱きしめた先ほどよりも余程熱くなってしまったことが悔しくて、ボリスは混ぜっ返そうとした。
「でも、そんな抱きしめられたくらいで。
「え?」
「ばっ」
言いかけたボリスの唇をロナは自らの唇を重ねて封じた。
すぐ前で抱き合うよりも更に濃厚な光景を目撃させられたエタは、真っ赤を通り越して青くなってしまい、腰を抜かして窓を背にずるずると横向きに倒れた。肘でなんとか体を支えるが、あわあわと口から出すともない呻きを出しつつ後退していく。
ついに部屋の角まで下がり、それ以上離れられなくなると、体の向きを変えてふたりを目に入れないようにした上で顔を覆った。
「思い出せていないんです」
唇を離して横目で確認したエタと逆を向いてロナが耳打ちした言葉と視線に察したボリスは、その恋人すら身の危険を感じるほどの怒気を眉間に滲ませ、すぐに真逆の顔を作った。
へらりと目尻を下げ、突然の役得に上機嫌を装って、エタを振り返る。
「例えばさ、エタ。あの方としたい?口づけを」
それ以上進めない隅からさらに逃げようと足掻いていたエタは、ボリスの言葉に動きを止め、覆っていた顔を上げて首を傾げた。
「え?・・・しないよ、そんなこと」
端から見れば結論など分かりきっている。
マルベリを思い出してから不安定な精神が混乱を引き起こしているだけだ。
そして、不安定な理由、過去を思い出せない理由は。
作り顔が歪みそうになるのを、拳を握りしめて耐える。親指の付け根の膨らみに爪が食い込む痛みで、予想か、想像か、いっそ妄想と呼べればいい聖女の過去を振り切れればよいと。
そのボリスを隠すようにロナがエタに近づき、ふわりと抱きしめた。
「温かいです?」
「うん」
「心臓の音、聞こえますか?」
「うん、聞こえる」
「安心しますよね?」
「うん」
ロナはそっとエタの頭を撫でた。白髪の頭頂に触れても少女は逃げなかった。さらりとしなやかな髪がロナの手をくすぐる。
エタは反転してロナがボリスに抱きついたのと同じ格好で背中に手を回してきた。侍女服をぎゅっと掴み、胸に顔を押し付ける。
広義の愛というべき生命を、確認していた。
「ドキドキします?」
「する・・・けど、違う。あの時、鎧越しの抱擁、手甲越しの温もり。もっと。違った」
恋心という意味でエタの胸を高鳴らせるのはただひとりだけ。
「じゃあ。エタ様の大切なその方とは、口づけ、したいですか?」
「あの頃は・・・」
「いま。いまからの、エタ様自身の」
心で。
「うん・・・あぁ、逢いたいなぁ」
ロナの胸から顔を上げて遠くを見詰めた青い瞳は、ただ透き通っていた。雪解け水が流れ込む春の湖の色を湛えて。
耳まで赤くゆであがっていたのが嘘のように白い頬にはほんのりとした朱が差し、愛する人を想って上がる口角を静かに受け止めている。
こめかみから流れる髪は朱の上にまた白を重ね、見詰める先がどれほど遠くとも陰ることのない希望を、決意を輝きに秘めていた。
驚くほど、大聖堂の画に似ていた。
誰も、疑わないだろう。
見る者の心を打つ、この笑みを見れば。
少女が、封印の聖女マルベリの血を引く者だと。
そしてそれこそが。
姉であり主である少女の苦しみの理由を気取ったボリスは、死者への憤りを隠すために背を向け、祈った。
遣り場のない怒りで沸騰しそうになる背中を、会ったこともない聖者の祈りがそっと撫でてくれた気がした。
それぞれで気持ちを落ちつかせた三人は、誰からともなくテーブルに着いた。
「さてと。私が出向いた要件、ひとつしか片付いていないんですよー」
「ボリスの無事を確認しに来ただけじゃなく?」
「そんな・・・完全に私用でしょう、それじゃぁ」
「まぁまぁ語るに落ちてるなぁ。んで?」
ロナが新しく淹れたお茶を啜って、エタが先を促した。ドレスのスカートの中では膝にもう一方の足を乗せ、テーブルの上についた片ひじで顎を支え、傾いている。向かい側ではボリスが左右対称の姿で——侍女服のスカートは細幅のため捲れ上がっている——ロナの話を待っている。
「エタ様がお部屋に閉じ込められた、というか出られなくなった時、パウラ様が気色の悪い・・えぇっと、粘りのある魔力を送り込んだの、覚えてらっしゃいますか?」
「背中に取り付いてゾワゾワさせたヤツ?」
そうですそうです、とロナはエタの肘めがけて懐から取り出したコインを滑らせた。テーブルクロスをなめらかに移動したコインがこつんとぶつかる。途端。
「うひぁああ」
冷たい魔力が肘からすぐに背筋に取り付き、粘性の液体を撒きながら動く生き物のように這う。手を背中に回すが、絶妙に届かない場所で蠢く。
「やろう・・・あ、消えた・・・何なのこれ?」
短時間だがどっと疲れたエタはテーブルに突っ伏し、捻った首でロナを見上げる。
「パウラ様の嫌がらせ魔力、生き霊くん二号です」
「意味が分からない」
きりっと真顔で、主の秘密兵器を紹介したロナに、エタはテーブルに転がした頭を振った。
「私としてもあの年頃になるまであのような程度の低い・・・こほん。いえ、パウラ様が子どもの頃に開発した魔法、というか魔力を使った技なのですよ」
「魔力自体を使った技?」
「さる方に近づく女性に少々の嫌がらせをするために開発した・・・まぁ、理由はさておき」
「嫌がらせ・・・悪意・・・漂ってきた悪意・・・まさか」
理屈としては有り得る。何かに纏わせた魔力に簡単な動きを取らせることは可能だと王妃が示した。複雑なことはできないし、作動させるのに更に魔力なりの切っ掛けが必要となるはずだが。
『滅ぼせ、あの方を滅ぼしたお前が、滅ぼしてしまえ』
「百五十年前を知る、悪意を含んだ魔力・・・」
「パウラ様はそうお考えです。王宮の秘密通路にこびり付いた、悪意を持った誰かの魔力の残滓だと。ただ、今頃になって表に出てきた理由は不明です」
魔力のみで工作を行おうと仕込むのには無理がある。術者から離れた魔力は徐々に失われていくし、何らかの形で消費されるとしても短時間で作用する。
長時間、長期に渡る呪術は、大がかりな装置、つまりは魔方陣や贄が必要となるから、逆にあの程度の——唆す程度の——作用であるとは考えにくい。
「残滓ごときに・・・ん?秘密通路?」
「王宮に張り巡らされた、王族いえ、レイグノースの血を引く者だけが使えるという通路です。強固な結界に守られ、いかなる攻撃も防ぎ、有事には王専用の避難所にもなるそうです」
「そんなのあった?いや。いかなる攻撃も防ぐ・・・あっ」
「なるほど。思い当たる節がある、と」
黙ってふたりの遣り取りを聞いていたボリスが口を挟んだ。中身のなくなったエタのティーカップにお茶を注ぎながら、顎先だけで促した。とても従者には見えない不遜な態度だ。
「いや、ほら、地下で。壁が壊れなくってさぁ。おかしいなと思いつつ魔法を打ち込んだんだよ。途中から、あ、これ練習に使えるなって、強度を上げ下げしながら」
「もしかして倒れてたのって」
「急激に来るじゃん、魔力消費の反動って。越えた時点ですこーーんて。空腹もあったし。いや、ほら、おかげで調節できるようになっただろ?」
エタは手の平を上向け、小さな光球を出した。指先を曲げ伸ばしすれば光の加減は変化する。確かに魔力操作は上達したようだ。
素直に褒めるわけにもいかない——明らかに褒めて欲しそうなエタの表情を無視した——ボリスとロナは、内心ほっとしていた。少なくとも暴走以外で他者を傷つける危険は減ったということに。
「つまりエタがバカスカ打ち込んだ魔法は秘密通路に吸収され、余剰魔力で通路内にこびり付いていた悪意の魔力が励起された、と」
「誰かが、いえ、王か王太子の二択ですが、秘密通路を開いたときに神様の気配と共にそれが漏れ出し、怒りに我を忘れたエタ様に影響したわけですか」
結局、エタじゃん。
やっぱりエタ様ですか。
仲良く声を揃えたふたりに、エタは抵抗を試みた。
「いや、やっぱりおかしいよ。誰かが通路を開けるたびに微弱といえない気配が漏れていたのなら、もっと王宮全体に影響が出ているし、枯渇していないのも変だし、そもそも神様の気配をあれほど濃厚に」
エタは言葉の途中で固まった。
悪意は何といった?
『壊したいのなら、手に取るがいい』
その思いつきはおそらく正しい。
秘密通路から漏れた神様の気配は、聖具だ。
悪意がエタの魔力に励起されたのと同様、神様の気配もエタの魔力の影響で表に出た。王宮やそこに住む者たちに変化がないのなら——エタに対する態度などを考えれば変化は起きていないと断言できる——普段は漂っていたとしても些少だろう。聖者に類する者であれば感じられる程度の。
つまり、聖錫自体も呼ばれるのを待っている。悪意はそれに乗っかろうとしただけだ。
『王宮に収められた聖錫』
『王太子がどれほど重要か分かっていない』
王妃は<王国>に嫁いですでに十八年。聖女として過ごしてきた間、本物の聖錫の在処について探っていたはずだ。与えられた聖錫が偽物だったから、いや、探るために聖女になったとしたら。
だから、秘密通路のどこかに聖錫があることを知っていた。王妃が探せない場所がそこだけなのだから、消去法で辿りつけるし、気配を感じていたはずだ。
分かってしまえばあからさまな助言だが、吟味する間もなく窮地に陥ったエタに対して、王妃はロナを使って再度助力してくれている。
「みんな、どうしてこう・・・過保護なのは、頼りないからなんだろうなぁ」
自嘲気味に笑ったエタに、またふたりは声を合わせた。
みんな、大切だからだよ。
みんな、大切だからですよ。
封印の聖女ではなく、神様の遣いとしてではなく、エタ自身が。
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