<8> 騎士団長

重力に逆らえずパサリと落ちてくるベールと力を失った右手。

大聖堂の正面壁面を見上げ呟いた声は、雷の轟きの余韻。

彼女が、エタ様が何故周囲の注目を集めるのか、教えてあげたかった。

それだけなのに。


魔力がエタ様の体を覆っていくのが分かる。

怖ろしい速さで。怖ろしい濃度で。

肩を揺すろうとした手は、触れる前に見えない壁、纏った魔力に弾かれた。

それでも軽く痺れただけなのは、この方が優しいからなのだろう。

誰かを傷付けることを良しとしない。

敵と見なさなければ、かもしれないが。

浮かんだ考えに、心臓が潰れそうなほど縮む。

暖かい春の日差しが、力を持って押さえつけてくる幻覚に囚われる。


かぶりを振る。

そんなことよりも。

破裂した魔導具どころではない、蜷局とぐろを巻くような魔力の高まりが。

暴発すれば、この方自身が危ない。


礼拝、見学のために来た貴族たちは、階段の下で立ち止まって大聖堂正面上部に飾られた二枚の画を見上げる私たちを気にも留めない。

修道女がありがたい大聖堂を見て感動しているとでも思っているのだろう。

広く漏れ出ていないとはいえ、この魔力に気づかない程度の者が貴族などと、滑稽なことだ。

叫ぶわけにも誰かを探しに走るわけにもいかない。顔を動かすのも憚られて、けれど時間は事態を悪化させるだけ。

小声であの、とか、もし、とか、大丈夫、とか。聞こえていないのを承知で掛け続ける。



「お困りのようだね」

さらっと背後から白い手袋が頬を撫でた。

振り向いた時にはすでにエタ様の後ろにいた。

騎士服を着た銀髪の男はあの方の両肩を持ち、魔力を吸収しながら呪文を唱える。

「失礼するよっ」

小声で謝りながら出した魔法は、謝って済む大きさのものではない。

一瞬あの方の全身が黄色く発光して、そして膝から崩れ落ちた。

倒れる前に抱き上げると、そのまま去って行こうとする。


「あ、あの、何処へ」

「大聖堂見学に来て気を失った修道女を、この場を御守りする任を負った我々騎士団が介抱するのに何か問題でも?」

「いえ一緒に来た友人ですので、行動を共にしたいだけです」

男は碧色の目と血色の良い唇を緩める。

周囲で様子を伺っていた貴族の女性たちがほぉっと感嘆の息を漏らす。


「心配しなくても後で送り届けさせるよ。ま、迎えが来る方が早いのかもしれないが」

片手で軽々抱き上げたエタ様を少し持ち上げる。簡単な別れの挨拶のように。

つぶては何処にやったかな、カテナ・フンメル」

そうしてすれ違いざまに小声で付け加え、宿舎とは逆の方に去って行った。





——抜けた青空。

塔から見る、窓枠に切り取られた空じゃなくて。

目の前には一杯の青空が広がっている。

緩やかに流れる雲が一筋の尾を付けて。

風が優しく頬を撫でる王宮の庭の。

芝生に二人、並んで寝転がって。

見上げた青空を、君覚えてるだろう。

これでまた。

二人で見ることができるだろうか。





びくり、と体が痙攣して目が覚めた。

浮遊感を伴う反応は、夢と連動しているともいわれる。

きっと箒を振りかぶった鬼の形相のババァに追いかけ回されて、段差から転げたとかそういう夢だ。

でなければ、砂舞う春の嵐に巻き込まれたように喉も背中も心もざらつく説明がつかない。



背中に弾力を感じながら身体を起こせば、掛かっていた重い上着が床に落ちる。

片手を伸ばして拾おうとすると、バランスを崩して自分まで落っこちた。

それほど高さはないから痛くはないが、まだ寝ぼけているようで、見ている者がいなくても気恥ずかしい。

服の下敷きがある背以外は石造の床が冷たい。生きているからこその感覚が心には逆の温かさを生んだ。

目覚めにいつもしているように体を伸ばす。

両手両足をぐーっと伸ばして、意識的に体全体を起こしてやるのだ。



「あはははは。大人しくできない子だねぇ」

びくり、再び体が反応した。

突然部屋に若い男の笑い声が響いたのだ。

寝起きで感覚が鈍っていた訳ではなく、一切の気配がなかった。

自分一人でどこかに寝かされている、そう思い込んでいた。


ゴッゴッと床を叩きながら、軍靴がゆっくり近づく。

床の上で両手両足を伸ばした無様な格好を晒したまま、その様子を眺める。

心臓が規則を無視した律動を刻む。

速まる音に、軍靴のリズムを加えて。


落ち着け。

命に危険があるなら、目覚めてなどいない。

手足も頭も動く、枷の一つも付いていない状況で、焦る必要がどこにある。

ようやっと目を逸らし、起き上がろうとした時。


「僕の上着」

掛けられた声に顔を上げる。

見下ろす碧色の目と合う。


誰かの顔が脳裏を掠める。

違う。

似てるけど違う色だ。

誰と?

誰の事を考えた。



「ねぇ、僕の上着、下敷きなんだけど」

再び掛けられた声に引き戻されて、やっと上半身を起こす。

尻の下には掛けられていた上着、騎士服が。

身体の横に付いた手で掴んでいる部分もきっと皺になっている。


「あ、とっ、と?」

慌てて退こうとすればその前に、後ろから両脇の下を持ってソファ上に移動させられた。

ひょい、とでも表現できるような、小さな子どもにするように。

自分もチビたちの世話をするから分かる。

でも、もう十五だぞ。


「まぁまぁ。そんな屈辱って顔しなくてもいいじゃない。他に誰もいないんだし」

案の定皺だらけになった服を拾って、銀色を頭に乗せた男は笑いかけてきた。

屈んでほとんど同じくらいの目線、ごく近い距離で。

目と口を弓なりに丸め、親しみを演出する。

演出しているのが分かるように、態とらしく。

全身から溢れる余裕と魔力も見せつける。

やるつもりなら跡形もないじゃないか。焦って損した。


「笑顔を押し売りすんな」

「人気あるんだけどな、僕」

やはり態とらしく肩を竦めて、右手で襟首を掴んだ上着に、左手の平をかざす。

「じゃぁお近づきの印に、お茶でも淹れようか」

ソファの背に雑に掛けた高級そうな騎士服の皺は、綺麗に取れていた。




部屋の奥、重厚な黒の執務机の脇に置かれたワゴンに、二人分のティーセットが準備されていた。

ただし、あるのは茶器だけでお茶は男自ら淹れるようだった。

壁際は中身の詰まった本棚が並ぶが、一つはただの戸棚のようだ。

男は中から茶葉の入った箱と菓子折を取りだし、軽く手の平を当てる。

「一応立場のある人間なんでねー。鑑定は欠かさないし、できるときは自分で淹れるんだ」


執務机の上にある魔方陣で茶器を温める。

茶葉を入れて、魔導具で湧かした湯を注ぎ、蒸らす。

待っている間に箱の包装を解き、菓子を皿に移した。

それから鼻歌混じりに片手にティーカップを持ち、ティーポットを持った手を肩より上の高さまで上げて一気に注ぐ。

二杯分交互に入れ、最後の一滴まで出し尽くすとポットを置いた。


ワゴンを押して応接セットの方に来ると、コトリとも音を立てずにテーブルの上に整えた。

スーツに替えて執事としてやっていってもいいのではないか。


「レディを呼ぶと分かっていたらもう少し気の利いた菓子を用意したんだけどね」

向かいのソファに座りながら、小皿を示す。

ごく薄い桃色のグラデーションに赤い小花を散らした絵付きの皿には、焼き菓子の類が二つ乗せてあった。

オレンジ色の粒が所々に入っているのと手の平の様な形をしたのだ。

ゴクリと勝手に喉が鳴る。

だが慌ててはいけない。食べ物に対して短い祈りを捧げた。


「間食にも祈りって必要だっけ?」

「時間的に夕飯かな、と思って」

あっちに戻ればちゃんとあるよ、と今度は普通に笑いながら、男は菓子を一つ丸ごと口に放り込んだ。

もっちゃくっちゃと咀嚼する音に呆れながら、自分も菓子に齧り付いた。


「コレ旨いな。ホントすげぇ。うめぇ。」

「こんなので良いならもっと食べなよ。痩せてるし。持ってく?」

「修道院に持って帰られるなら欲しいけどな。無理だろ?」

「そりゃぁ、ね」


男が座る側のソファには修道帽、ベール、垂れ、紐が畳んで揃えられていた。

ブカブカのシャツワンピース一枚で男と二人きりでティータイムなんて、世間体が悪そうだな。

まぁ元々世間的な評判では最下層にある修道院の中でもとびっきり下の立ち位置なんだから関係ないけど。

喉は潤い、腹も膨れた。

さて。


「ここはどこだ?」

「今更?」

碧の目を大きく開けて大袈裟に驚いて見せた。しつこいほどに芝居がかる必要があるのか。

こうやってこの銀髪碧眼の偉丈夫がペースを握らなければいけないほどの力を自分は持たないというのに。

「ここは騎士団長執務室。僕はアルベルト・ギュンター。騎士団長を拝命している」

「騎士、団長」

焼き過ぎた肉を無理矢理食べたみたいな

苦さが、唾液に希釈され口一杯に広がる。

できるだけ平静を装い、お茶で流した。それで誤魔化せる相手でもないのだが。


「嫌な響きでも?」

「どうして」

「大聖堂で君、自分がどうなったか覚えていない?」

カテナは自分が注目を浴びる理由が分かると言った。

大聖堂の大階段の下、見上げた壁面に以前は無かった画が二枚。

白い髪の女性、金色の髪の男性。

二人は微笑む。まるで。


「わっ!!」

「ぅおわっ!!」

びくり、背筋から肩まで一気に通った電気が脳天まで届く。

目覚めてから何度目だ。寿命が縮んだらどうしてくれる。

文句は、しかし口から飛び出る前に阻止された。


「やっぱり思い出さない方が良いねぇ。大聖堂にも近づかない方が良いかな、まだ。祭りが始まる前に終わっちゃう」

にこにこも過ぎればにやにやと嫌らしく変わる。

余裕と相まって、戸惑う自分を嗤っているようにも感じられる。

「それにしても、あれだけの魔力を魔法にして返したというのに、傷一つない」



すごいね。封印の聖女の血は。



笑みを消した顔、赤い唇を這う赤い舌。

その先は分かれてなどいないのに、細く幾重にもちらつく。

余裕を持っているはずが、その眉根に浮かぶ微かな負の感情。

ほんの一瞬だけ。

その言葉を口にした表情は瞬きする間に掻き消えていた。

代わりに軽い身じろぎに金属の音がした。



「君は魔力の操作も制御もできないだろう?

先ほど君の魔力が暴発していれば、大聖堂は軽く粉微塵。内部と周囲合わせ、まぁ軽く見積もって」

これくらいかな、と指を二本立てた。

「二十人・・・結構な惨事だ」

自分が険しい顔になるのが分かる。

だが、騎士団長はまたもや優雅に肩を竦めながら首を振った。

「桁がね。二つは違う。大聖堂にどれだけの人間がいると思ってんのさ」

軽く二千人を葬っていた。そこそこの遣い出かな、と立てた指で頬を掻きながら事もなげに言う。

「君を。そうだねぇ、例えば戦場のただ中に君を連れて行く。

目の前に例の画をぶら下げてやれば、吹き飛ばしてくれるわけだ」

ドカーン、と子ども染みた声と万歳。だが、想像の中で吹き飛んでいるのは人だ。


「そこで、だ。少しだけレクチャーしてあげよう。魔力操作を」

「騎士団長閣下に支払えるモノなど何もないけど?」

タダより高いモノはない。うまい話には裏がある。

自分が望んだようで実は巻き込まれている。

聖女選定の儀、ど真ん中に。


「封印の聖女様に敬意を表して。簡単な約束だけでいいよ」

「約束?」

「僕の邪魔をしないで欲しい」

「ご冗談を。今すぐ自分を八つ裂きにできる力を持ったヤツの邪魔?」

「警戒、いや、保険だよ」

「保険。備えておくのが大切だ、ババァの口癖の一つだな。いいよ、条件を呑む。どの道アンタが本気になれば敵うわけない」

他者の、それも大勢の生殺与奪を握らされるなんて真っ平御免だ。

魔力そのもので何かを破壊できるなんて知らなかったけど、もうそれでは済まない。



「いいかい?よく見ておくんだよ」

男は左手の平を上に向けて差し出す。

えい、とも声を出さず、手より一回り大きな氷の円柱が上向きに作り出された。

その周りを右手でゆっくり撫でれば、氷が削られ精緻な薔薇の花が現れる。削り滓がテーブルの上で煌めきながら溶けていく。

誰もが眩むような笑顔を向けて、出来上がった氷の薔薇をこちらに差し出した。

受け取り、天井の照明の魔導具に向けて翳す。

一枚ずつ形の違う花弁の表面に溶け出した水滴が、光を受けて輝く。

どのように彫ればそうなるのか不思議だが、花弁の端は外側に少し丸まっているのだ。

茎から出た二枚の葉には葉脈もあり、棘まで再現されている。

「これを作れるように練習して」

「難易度高ぇ!」



目の前の男は口を閉じたまま魔法を使った。

確かにカテナは、魔法に必要なのは術者、魔力、対象の三つだといった。

だが、今まで見た魔法はすべて呪文の詠唱を以て行使されていた。

「呪文って」

呟きに答える。

「術者の魔力集中あるいは対象への効果を上げる為、ある程度の型はあるが、めいめいの言葉、長さ、速さで詠唱は行われる」

が、と否定で続ける。

「明確なイメージ、果ては魔力を多く消費するごり押しにより、詠唱などなしに魔法を行使できる」

ともあれ基本の魔力操作ができなければ先には進めないんだけど。

と、足した言葉に疑問が浮かぶ。

「ちょっと待て。魔力操作ができなければ不可能な魔法を実演して、魔力操作を覚えろっていって?

いやそもそも自分は魔法が」

銀髪を掻き上げると、軽く膨らませた頬から音を立てて空気を吐き出す。

それから左目だけパチリと瞑り、話は終わりとばかりにティーカップを持って立ち上がった。

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