<21> 氷柱

「おかしいなぁ」

大男でも抱えられない太さの氷柱が林立する王宮の客間で、白髪の少女エタは呟いた。

魔法が使えるなら、騎士団長が見せた氷の薔薇を作れば魔力操作の練習になる。そう考えたのは間違いじゃないはず。


「おかしいのはエタ様ですね」

テーブルの下で頭を抱えてしゃがむロナも呟く。その声を掻き消す、何度目か分からない音が部屋を揺らす。

鳩尾を殴られたような感覚を催させる重い振動に、侍女姿の魔族は顔を顰める。軽口でも叩かないと震え出してしまう。先ほど何の気なしに放った風の刃が掠っていたら。真っ二つに分かれて中身をだらしなく垂らす、屠ってきた魔獣や野盗と同じような我が身が簡単に想像できた。


天井にぶつかって砕けた氷の欠片が、ばらばらと落ちてきた。火水風土のいわゆる四大魔法と違い、氷魔法を使える者は少ない。使用者が少ない分、研究も遅れており、個人の技量の範囲でしか魔法が存在しない。

これくらいの大きさの氷でも、魔法で作れる人は一握り。ロナは床で溶けていく煌めきにそっと指先を近づける。

しかし腹に響く重量が爪のほんの先で床を揺らし、欠片は目前で潰された。顔と手に飛沫が掛かる。すぐ横の氷の柱の一部分が、割れて滑り落ちてきたのだ。ロナは反射で引っ込めた手に息を吹きかける。当たったのは氷の欠片が潰されて水になったその飛沫だったが、心臓はびしょ濡れに震えていた。叫び出さない自分を褒めたいくらいだ。


先ほどからの独り言をまとめると、エタは手の平からコップくらいの高さの氷を出すつもりのようだ。ところが、床から天井に激突する大きさしか作れない。幾度挑戦しても変わらず、部屋は箱馬車のように揺れ続ける。先ほど張った結界のおかげで天井が突き破られないことがせめてもの救いだ。

窓もクローゼットも氷柱が塞いでしまっていた。ベッドは下から突き上げられ、板の一部が天井に押し付けられているほかは破片となって床に散らばっている。

いっそ神秘的といっても良いかもしれない。

穏やかに澄んだ川の流れのように真っ直ぐな、掛かった肩で僅かに内に巻く白髪。冬の晴れた日に凜と冷えた空気が撫でた湖色の瞳は魔法を行使する瞬間、深みを増す。何日も眠っていても、いや眠っていたからか、艶が増し、血色の良くなった唇は、紡ぎ出す神託を待つ厳粛な気持ちを沸き立たせる。

その方が、氷で柱を作っているのだ。

耳を塞いでいれば。いや、五感を塞いでいれば。

唇から出る声が多少低いのはご愛嬌としても、おかしいなぁ、持てるくらいのやつだって、といった姿に似つかわしくない独り言と、寒気がするほどの魔力が空気に緊張を張り渡し、瞬時に作られた氷の柱が床と天井に殴りかかり轟音で空気を震わせるこの感覚が無ければ、神秘的な光景だったかもしれない。


「そうか、詠唱だ」

そろそろ終わりませんか、とロナがテーブルから出ようとしたところ、しゃがんでテーブル下を覗き込んだエタが、閃いたとばかりに言った。危うく頭同士をぶつけそうになった。

「きっとそれで強くなりすぎてたんだよ。ゆっくり詠唱してた人の魔法は頃加減だったから」

「それ、違っ」

立ち上がり、こんな感じだったな、と選定の時に誰かが使っていた呪文をエタは真似た。

「凍てつく」

呪文は魔術師の集中を高め、魔力の凝集を促す。<術者>が<魔力>を用いて<対象>に行使する、魔法の必須三要素の中に詠唱は含まれない。現象として世界に影響する様を明確に想像すること——消費する魔力に見合った正確な想像——ができるのなら、詠唱は必要ない。

手を振るだけで鋭利な風の刃を起こし、氷魔法を想像するだけで巨大な氷柱を作り出す方が、詠唱により一層魔力を凝集してしまったら。

「空に混じる」

「待っ」

床も天井も突き破り、横にも膨張する氷の柱は、二階にあるこの部屋を起点に、壁を打ち払い、人も家具もすべて飲み込みながら成長する。王宮の代わりに巨大な氷が鎮座することになる。絶対に止めなくては。


ロナはエタに取り縋ろうと慌てて体を起こした。だが、大理石のテーブルに後頭部をぶつけ、勢いで床に倒れ込む。毛足の長い絨毯は身体を受け止めてくれたが、角に打つけた頭から血が流れ出した。咄嗟に起き上がれない。

エタの周囲の魔力が明らかに変わった。部屋中に満たされていた魔力が、エタの周りに集まっていく。凝集する魔力は摩擦で温度まで上げる。氷の柱が溶け出し、絨毯の長い毛が浮かぶほどの水が満ちてくる。腹ばいのロナは全身が濡れ、溺れないように顎を立てた。

頭がじんと痛む。傷自体は深くないとは思うが、出血は多く、頬から顎を伝い水を赤く染める。その水には氷の柱が浸かっている。体温が急速に奪われていく。


「パウラさま、たすけてぇ」

これほど情けない声を出したことはたぶん無い。主を守る従者が主に助けを求めるなど。姉が存命であったらどれほど叱責されることか。


「粒たち・・・え?」

「あ」


エタは詠唱を止めて振り返った。溶けて細くなった氷柱が楽器のように軽やかな音を出して順番に倒れていった。集まっていた魔力はまた部屋の中に均等にばら撒かれる。

「冷たっ」

いつの間にか冷水に足を突っ込んでいる。いや、部屋中水浸しだ。背筋を氷で撫でられた感じがしたのは、このためか。

そういえばロナは、と視線をテーブルに向けると、その下から手が伸びている。

「あわわわっロナっ。水邪魔、あぁ、怪我してるぅ」

ばしゃばしゃと水を跳ねさせて近寄り、両手をそれぞれ、床とロナに翳す。瞬時に、足の甲まで来ていた水はなくなり、ロナの傷も癒える。

ほっとして座り込んだエタの背筋をまた、何かが撫でる。もう一度振り向く。そこには何もない。しかし今度は、うんと寒い日に水溜まりに張った氷を背中に入れられたみたいに強烈な寒気がして飛び上がった。両手で身体を掻き抱き、震える。粘度というよりはねっとりとした指向性を持つ魔力が、エタの周囲に纏わり付いていた。


「なんだこれ、何なに」

「そこまで脅えていただかなくても・・・でもまぁ、お気持ちは分かります」

ロナはテーブルから這い出して、エタの隣、テーブルの上に尻を乗せた。行儀は気にしない。慌てるエタに対して、ロナはよく知る魔力に落ち着きを取り戻した。


「中途半端な隔絶ね」


扉の方から声が聞こえた。ぴしゃりと言い切る冷たい声にまた背筋が震える。

エタの張った結界は、中の音は外に漏れないが、外の音も聞くつもりがなければ耳に届かない。エタは魔力操作の練習に夢中で廊下の喧噪など気に留めていなかったから、扉向こうに人が大勢いることすら気付いていなかった。

だがその声は、勝手に聞こえてきた。


「エタ様、今から室内に魔力を送ります」

冷ややかな声がまた部屋に響く。エタの心は縮み上がる。魔力はすでに送っているではないか。冷たい、どろどろとした、それでいて濁りのない感情を込めた魔力を。

それは深い深い湖の底にある浮かぶことのできない澱みだ。真冬の空気が循環を促そうが、誘う対流に乗れるほど軽くはない。長い年月を掛けて成長し、もはや本人には動かすことができなくなっている。

常人であれば。エタは焦る心の片隅で思った。常人であればきっと腐臭を発し、他者を自分を傷付ける怨念となっているだろう。その澱は澱というには清らかだった。


「吸収できなければ一緒にいる侍女がもちません」

声の主は明らかにエタに対して負の感情を抱いている。ロナの態度から、相手が誰だかは分かったが、覚えは一切ない。

魔力の吸収なんてどう遣るのか分からない。ロナか王宮が消し飛ぶといわれ、焦るエタは両手を組んだまま、足踏みしている。

連続で巨大な氷柱を造っていたとはとても思えない慌てぶりに、余裕ができて頬杖を突いたロナは言った。


「かなり不機嫌でいらっしゃいますね。噂話のせいで」

「まままって、話せば分かるっ」

「三二一」


秒読みは一息で。そして、一と同時に、扉をきつく叩く音が聞こえた。透明な魔力、力そのものが扉をすり抜ける。部屋に入るとなしに、エタの魔力と擦れ、纏っていた<隠蔽>が剥がれた。濃い青色の塊だ。拳程度の大きさだが、濃度というよりは密度の高い、殺傷力を持った塊。

ちりちりと魔力同士の摩擦で周囲に火花を散らしながらロナの背中に向かい飛んでくる。


「わーー」

エタは組んでいた両手を離してロナに抱きついた。ロナは受け止める。エタの伸ばした両手はロナの背後すれすれで魔力の塊を掴まえた。衝撃に手首が反れる。駄目だ。ぶつかる。しかし魔力は重さを失い霧散した。

エタは瞬きもせず両手を見た。手の平がこちらに返った両手が魔力を吸ったのか消したかは分からないが、ロナも王宮もまだそこにあった。

半開きの口からうめきの一つも出せず、ただ激しく鳴る鼓動だけ漏れている気がした。

部屋に満ちたエタの魔力は先ほどの魔力に薄められていた。力が相殺されたといっていい。しゅるりと包みが解かれたような音がして、部屋の守護は消えた。

軽く二度背中を叩かれ、エタは全身の力が抜けてロナにもたれ掛かった。

「おかげさまで結界が解けましたよ」

「無理矢理すぎる。ちょっと休ませて」



エタがロナの肩で大きく息を吐いた時、扉が乱暴に殴打され、その勢いのまま開いた。

「新聖女様、ご無事ですか!この部屋の有様は・・・」

騎士は返事も待たずに踏み込んできた。部屋にはかつてベッドであった木の板と柱が散らばる。細く短くなっているものの、何本もの氷の柱も転がり、まだ冷気を発している。奥のカーテンは切り裂かれ、ベランダが丸見えだ。ロナに抱きかかえられたエタを見て、四人が取り囲む。傷付けられた或いは人質かと勘ぐったのだろう。

開け放たれた扉の向こう、廊下では、剣を突きつけられた王妃が表情も変えずにこちらを見ていた。


「聖女様、血が。貴様、何をした?!」

踏み込んできた騎士も剣を抜き、切っ先をロナに向けた。

血、とエタは自分の頬に触れる。先ほどのロナの血が、すでに固まりかけている。

「これは返り血というか」

「私の侍女に何かしたのですか」

エタの言葉にすぐに反応した王妃は一歩、首元に突きつけられている剣を無視し、扉に近づく。

「おい、動くな」

「少し話すだけ。待っていなさい」

騎士団長代理カディス・ディストロは剣を握り替え、再び口を開こうとする。が、王妃が彼にだけ聞こえるように何ごとか呟くと、結局は剣を仕舞った。

「少しだけだからな」

部屋の中の騎士に目顔で伝える。騎士たちもまた剣を仕舞った。ふたりを取り囲んだその位置から少し離れ、王妃が見詰める先を開けた。

エタは王妃から視線を外せないでいた。その姿を視認した瞬間から一切。背筋にも脇にも嫌な汗が流れる。魔力は勿論エタの方が多い。だが、今戦えばきっと負ける。いやそうじゃない。そういう話ではない。この人とは戦わなくても、負ける。生き物である以上、勝てない相手は世の中に必ずいるのだ。


「専属侍女も持たない娘と、情けを掛けたのが間違いでしたね。私の後の聖女になるというのに、従者もいない、魔法も禄に使えない。魔力操作の遣り方に、ギュンターの真似事をするなど愚かしい」

王妃パウラは、転がる氷だけでエタが何をしていたか察した。子どもの頃から知るアルベルト・ギュンターは、目の前で作った氷の薔薇を幾度も王妃に贈ってきた。最初は花にすら見えなかった彫刻を。彼は天才だが、それだけではない。貴族としての芸術的素養もある。あの薔薇を作れるのは後にも先にも彼だけだろう。


「品性に欠けるその姿。王宮に収められた聖錫をその手に握ることができるとでも?クラウスが認めるかしら」

エタは目覚めてから着替えていない自分の服の袖を掴んだ。修道院で着ていた服とは比較にならない、破れも汚れもないワンピースだ。しかしそれは、倒れたあと修道服から着替えさせられた寝間着だった。当然、男性である騎士に晒して良い姿ではない。戻った記憶と魔力。魔法が使えるようになり、使い方を忘れた。混乱の中で身支度などに気が回るわけがなかったなどという言い訳は通じない。

それに関しては私にも責任があるな、と背中に主の言葉を受けながらロナは思った。目覚めてすぐに着替えていただくべきだったのだ。その後は取っ手が無くなった上、氷柱が立ち並び、クローゼットには近づけなくなった。

「礼儀も作法も弁えない。失礼な態度を取るのが目に見えているわ。あの子がどれほど重要か分かりもしないでしょうね」

王妃が王太子を話題にすることは滅多にない——少なくとも騎士の中には聞いた者がいない——ことだったが、詰る材料として使ったと騎士たちは理解した。自らが長年勤めた聖女の位も、片腕として大切にしていた——愛人と噂される——司教も奪われ、嫉妬心をぶつけているのだと。

しかし氷の視線を変えない前聖女の薄青の中にエタだけは違う光を見ていた。怯えからくる発汗は止まり、静かな高揚に指先が痺れた。わざとだ。わざと冷たく突き放しながら、助言を。やはりこの人は。

動きかけたエタの背中を、ロナがまた軽く叩いた。耳元で、動かないで、と囁く。


「ロナ」

「はい、パウラさま」

ロナは抱きついていたエタを自分で立たせ、自分もテーブルから降りた。簡単に顔を拭い、エタに侍女らしく深く一礼すると、王妃パウラの方にゆっくりと歩いて行く。騎士たちは新聖女を守るためか、ふたりとエタの間に入った。

「さて、では離宮の方に参りましょうか」

王妃は振り返り騎士団長代理に言った。場を支配された苛立ちからか、腕組みに苦い顔で返す。

「侍女の身柄は預かろう」

「どうせ離宮から出すつもりはないのですから、一緒の方が効率的でしょう?」

「それを決めるのは・・・」

「でもこの子のことが心配になって、離宮を抜け出すかもしれなくてよ?現場が混乱すれば」

王妃は言葉を切り、声を潜めた。

騎士団長代理の胸に向かって一本立てた指先を振り、唇だけでいう。

あなたが、責任を取るのよね?

指先に目と同じ色の炎を灯らせて、嫋やかな笑みを浮かべた。

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