<22> 王太子の客人

王妃パウラの細い指先で青い炎が揺れている。白い蝋燭。子どもの頃に飽きず眺めた、ちろちろと橙色の先端を揺らし黒い煙を上げる蝋燭は、詰める息と身動ぎや瞬きに出る微かな心の揺らぎまで捕らえて右に左に定まらず揺れた。王妃の青い炎は塵も水も焼き切り黒煙を上げることはなくとも、ふたりの間で左右に振れ大きさを変えている。

王妃の頬は自らが出した炎でほの青く染まる。桃色の唇の端を上げて笑みを作っても薄青の瞳には氷が張り、優美に乗る鋭利さは変わらない。周りの温度は炎に温められることはなく冷えたままだ。


「そのような手品に私が誤魔化されるとでも?まぁいい。離宮に何が居るか、楽しみにするといい」

廊下で王妃パウラと対峙している大柄で眉間に深い皺を刻む騎士は、二十歳そこそこだろうか、こちらは優美とも鋭利とも逆の雰囲気を備える。太い眉と高い鼻がはっきりと影を付ける群青色の目を、瞬きの度に己自身を叩く長い睫が包んでいる。輪郭のはっきりとした唇の周りも髪色と同じ青みがかった金を塗した濃い髭が囲っていて、物腰の荒々しさと非常に釣り合っている。

眉間の皺といえばおっちゃんだが、それ以外には類似点は一切ない。おっちゃんは傷さえなければ柔らかな草食獣——呑気に草を食み、だが、危険には立ち向かう勇敢さを持つ——を思い起こさせるが、こちらは鈍感な肉食獣に見えた。仲間内で頂点に立ってしまえば、煩わしいことは手下がやってくれる。生存競争を身内の戦いだけで済ます鈍感さは暮らす世界そのものだ。狭く鈍感な世界。周りの変化について行けず、広がる溝に気づいた時には手遅れだ。


王妃が指先の炎に息を掛け、吹き消す。相手が期待する、手品であるが故の仕草だ。それでも騎士はまた剣に手を遣り、後ろに一歩下がった。王妃は騎士の小心など気に留めず素っ気なく言った。

「では、そろそろ失礼しようかしら」

「連れて行け。逃げられるなよ」

気圧されているのを隠すために王妃の言葉に被せる。周囲にいた騎士が王妃との間隔を詰め、一人が罪人を引っ立てるようにか細い腕を掴みにかかる。


「下がりなさい」

「待って」

「まぁ王妃さま」

騎士の手荒なエスコートを断る王妃の声と、王妃を引き留めたい自分の声に、もう一人女性の声が重なった。

室内からでは見えない新しい登場人物に興味をそそられた。声音に含まれる棘は王妃に刺すにも自分に刺すにも脆弱でしかなかったが、王妃を陛下と呼ばない、恐らく貴族女性と思われる人物は一体何者なのかと。

とんとんと二度軽くその場で跳んだ後、ずらしてしゃがんだ膝に力を込めて跳ぶ。騎士が振り返った時にはもう頭上で一回転し、驚きの声を上げる前に彼らの前に着地していた。身体に遅れてふわり降りてきた服の裾が足にまとわりつく前に、扉に駆け寄り廊下を覗く。王妃はちろりと横目で認めたが何もいわず、背後の女性も無視して歩き出した。ロナも従う。


「元司教猊下の件、心中お察しいたしますわ。睦まじいご様子は茶会でもよく耳にしておりましたから。愛する方を奪われた上、罪人として魔獣の逃げ出した離宮に送られるなんて。なんて怖ろしい」

開いた扇子で口元を隠す、夏に大輪を咲かせる花の色のドレスを着た女性が小首を傾げると栗色の髪がさらりと胸元に流れた。王妃は立ち止まる。

「魔獣?離宮に?ディストロ騎士団長代理、どういうことです」

「騎士団での研究用に捕らえてきた魔獣が逃げ出しましてね。使用人含めてすべて退去させ、離宮からは出られないよう魔獣除けの結界を張っていますよ」

騎士団長代理らしい髭とまつげの特徴的な騎士は悪びれもなく言った。

「聖女さまで在られた頃は魔物すら討伐されていたご様子。魔の森の大蛇ごとき、相手にもならないでしょう?」

「まぁ騎士様、なんてことを。聖女様は聖錫を受け取られた時から魔法は使えませんのよ?このようなか弱い御姿で魔獣と対峙させる御積もりですの」

女性と髭まつげはウマが合うのか王妃を肴に楽しそうだ。蛇の魔獣に丸呑みにされる様でも想像しているのだろう。聖錫を賜った聖女が魔法を使えないという、真実ではあるが事実ではないことを信じる素直さも実にお似合いだ。


「魔の森の大蛇って」

体長が大人の背丈程度の若い個体は人や動物をいきなり丸呑みにはせず、細長いからだで巻きつき、全身の骨を砕いて蠕動しやすい柔らかい状態にしてから呑み込む。独り寝の寂しい夜、絡みついて眠りに就かせてくれる森の女王。それがその大蛇の名。

「アロンクィン」

自分の呟きに王妃が返した。それからロナと、コックを呼び戻さないと、とか、砦の方に、では無理ね、と小声で話している。

「仕方がありませんね。焼きましょう」

一層背筋を伸ばした王妃は、凜と張った声で宣言した。

「ははは。騎士の手柄を横取りするだけの元聖女が勇壮ですな。では・・・」

馬鹿にした乾いた笑いを返した騎士団長代理が部下に命じる前に、王妃とロナは立ち去っていた。後れを取った護送役の騎士たちが慌て追いかける。が、追いつきそうにはなかった。銀色の髪が翻り、細身のドレスが軽く捲れるほどの急ぎ足で王妃は去って行った。魔力の残滓はほの甘く香り、機嫌の幾らかは直ったようだった。

ねぇ、と廊下の角を曲がるふたりに叫んだ。

「残しておいてよ!」

非常に残念なことに返事はなかった。



「じゃぁもう用事は済んだでしょ?考えたいこともあるから一人にしてよ」

「そうですね。ではお部屋を移して、着替えなどもご用意させていただきます」

無事が確認できましたので、と髭まつげが部下と下がり、黄色いドレスの貴族女性と数人の侍女が残った。

侍女は部屋を覗き、惨状に言葉を失った。別の侍女が、しばらく立ち入り禁止にしましょう、と提案する。貴族女性はそれに頷くと、半歩前を歩き出した。

「この区域の管理の人?」

後ろ姿に問いかける。頬を少し引き攣らせたが、どうにか口角を上げ、女性は答えた。

「私は王太子殿下に客人として招かれていますの。三ヶ月前からもう一階上の客間に滞在しております」

人気のない廊下を進んでいく。居住区域とはいえ、侍女、召使い含め多数が働いている王宮内で誰ともすれ違わないのは不自然だった。

「人がいないね」

「王太子殿下が王城を離れておられますから。主のいない宮殿は静かなものです」

先導する女性について自分が、後ろを侍女三人が固めて歩く。廊下を曲がり、階段を降りる。また廊下を進み、扉を一つくぐると、窓はなくなり、緩やかに下る狭い廊下に魔導具の明かりだけが灯る。その明かりもちらちらと落ち着きなく瞬く。使い古した魔導具。壊れかけを設置した場所。倉庫がある地下か。どこへ連れて行くつもりか分からなくとも、名乗りさえしない彼女が何のために連れて行くかは分かった。

「こちらで。しばらくお待ちいただけますか?部屋の準備が整いましたら迎えに参りますので」

汚れた木の扉の前で女性は立ち止まった。打ち付けていた木板——倉庫とでも書いていたのだろう——を乱暴に外した歪な釘の跡が残り、何度も水物をぶちまけた染みが扉とその前の廊下に模様を作っている。水、酒、ワインといった水物それぞれが染めた色は古さとともに微妙に色合いを変え、幾重にも扉を汚していた。ところどころには一際小さい赤黒い染み、拭き取ってもきちんとは落ちない、床に落ちて跳ねた点々とさらに小さな飛沫の混じる跡が残っていた。それから扉を挟むように二箇所、真新しい金具が付いている。

「押さなくても」

自分で入るよ、と言い掛けた時にはもう室内に入っており、すぐに扉が閉められた。鍵を閉める音とかんぬきを掛ける音がした。

「そんな格好で殿方の前に出るなんて、夜着をワンピースと間違える貧民がどうやって殿下に取り入ったの?前聖女から愛人の司教を奪ったのは良いとして、騎士団長に気に入られ、殿下の興味を引くなんて。見目がお伽噺の聖女に似ているだけの下品な孤児が」

扉の向こうから女性が憤る。侍女たちも本当に、とか信じられないとか合いの手を入れる。

貧乏人と誹られるのは仕方ない。本当のことだ。王太子は知らないけど、騎士団長のおかしな行動に不信感を抱かれたのは自分のせいではないが、まぁ分かる。だけど。

「一つだけ確認したいんだけど」

こちらから話しかけた。気配はあるからまだ立ち去っていないはずだ。

「愛人の司教を奪ったって、どういうこと?」

どんと扉が響く。手を着いていた丁度その真裏を拳で叩かれたのだ。怒りが手から身体に伝わる。

「街で前司教を誑かして王城に入り込んだのでしょう?正体を失っていたのに部屋でふたりきりになった後には元に戻った。司教が大事に抱きしめていたと聞いたわ。そのような穢れた娘が聖女などとのたまい、挙げ句殿下に近づくなど言語道断。城を出るかここで朽ちるか、よく考える事ね」

行くわよ、と侍女たちを促し、踵の高い靴特有の音が遠ざかっていった。



「それで怒っていたのか」

王妃が不機嫌だった理由が分かった。

自分がおっちゃんを誑かしたなんて無茶苦茶な話だ。確かにおかしくなったのを戻してくれたのも刺されるのから庇ってくれたのもおっちゃんだけど。内容が混ざってるのは悪意でしかない。

どう見ても男女の関係があるなんてあり得ないふたりが愛人なんて言われるくらいだから、誰かに都合の良い噂など幾らでも作られるんだろう。

でも。

一瞬だったけど背に回った大きな手と胸に抱かれる温もり。それから頭に乗った手のひら。安心感。

厳しい言葉に助言を乗せ、何より目覚めたときの心細さを気遣ってロナを側に置いてくれた優しさ。冷たい瞳に隠した本心。

父親というのは、母親というのは、ああいう存在だろうか。自分を間に挟んで嬉しそうに笑うおっちゃんと王妃が浮かんだ。

それは私が数え切れないほど壊した、誰かの幸せだった。

胸を満たす苦味に頭を振る。考えてしまえば動けなくなる。


部屋を見渡した。窓はなく、壁に一つだけ設置された照明の魔導具は、何かを探すのにも苦労しそうな程度の明るさだ。奥には木箱が山積みにされており、酒か水用の樽も数個転がっている。廊下へ続く水の染みが視線の先にぼんやりと浮かぶ。正規の用途に使わなくなって久しい倉庫だろう。こんな場所に客人が出入りするなんて王宮の警備はどうなっているのかと思うが、侍女連中もグルだから良いのか。そもそも王宮に三ヶ月滞在している客人てどういうことだろう。


「辻褄が合わないなぁ」

王妃は罪人として離宮送り。わざわざ魔獣を放ったからには騎士連中は処刑のつもりだ。なのに、その王妃に助け出させた新聖女を王城から出て行けと倉庫に閉じ込める。

「すんなり聖女と認められるとも思ってなかったけど。王国貴族は貧民も魔族も嫌いだからなぁ。聖女と認める者と認めない者がそれぞれで動いている。で、認めない者がとりあえず閉じ込めてみた。後のことは考えていない、でいいのかな」

先ほどの若い貴族女性、どこかのご令嬢は、王太子区域といった。王太子区域の客間に寝かされていたのなら、王太子が招いたということだろう。どんな人物かは知らないが、次期聖女と認めた上で守ろうとしてくれた、と考えられる。対して、主不在の宮殿で、客人であるはずの令嬢が主の意に反した行動を起こしている。知られればただでは済まないが、その前に事を済ませてしまえばいい。いや良くないな。まず間違いなく処断——文字通り断たれる——されるはず。するとあの令嬢もまた利用されているのか。亡くなった派手な化粧の人みたいに。


「面倒な話ばかりだ。ま、一人になれたことだし、まずはババァに連絡してみるか」

奥の木箱の一つに腰掛けた。後ろには三段に重ねられた木箱がある。押してみて上から落ちてこないか確認してからもたれる。

ロナは『騎士団長やパウラ様ほどの魔力があれば相手を思い浮かべるだけで会話ができる』と言っていた。それが魔法かどうかは分からないけれど、マルベリだった頃は感覚だけで炎も氷も風も起こせた。そもそも魔法を使っているという意識はなかったのだ。でも聖錫を手にした後はできなくなったから、あれは確かに魔法だったのだろう。今ならまだ遠距離連絡もできると思えばきっとできる。


目を閉じる。

修道院を思い浮かべる。立て付けの悪い玄関扉の一部に力を入れて引き開け、音の鳴る廊下を進む。突きあたりに院長室の札がかかるババァの部屋がある。ノックは二回。返事の前にノブを回し、扉を開ける。ババァはソファで祈りの姿勢を取り、テーブルには純白の聖衣が置かれている。魔の気配に満ちた部屋にババァの聖詞が細く長く続く。聖典の序文が魔族の詞で紡がれ、ババァの目は赤く瞬く。魔封じの腕輪は無造作にソファに置かれ、光を放つこともない。

「そこに座りな」

読誦を途中で切り上げて、一つ息を吐くとババァはそう言った。瞳は茶色に戻る。

ソファに腰を下ろそうとするが、お尻がずぶずぶ沈んでいく。どうも座りが悪い。よく見れば身体がソファをすり抜けていた。

一度立ち上がり、座り直す。今度はお尻を落ち着かせることができた。

「中途半端に戻ったね」

「ん?これか?」

自分の姿を指さす。言葉の遣り取りだけだと思ったが、意識ごと飛んでしまったようだ。透けてはいるが、ババァの姿ははっきり見えているし、ババァからもこちらの姿は認識できている。

「違うね。力と記憶だよ」

「あぁ。・・・ババァはぜんぶ知ってる?」

「そうさね。これでも本物だったからね。だけどアタシが教えて遣れるのはアタシのことだけさ。アンタ自身のことは、アンタが思い出しな」

突き放してくれる愛情もある。育ての祖母もまた厳しい人だった。

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